学び史もの、自分。

自分史活用アドバイザー 富永吉昭


桜花の競艶。微香、優美そして裏腹にある幾ばくかの冷淡を翻して舞い落ちる花弁の集合もいつの間にやら路上の風に消えた。

平成の最後の春が去りゆき、令和の時代がやってきた。新しい時代に今後の人心と世情はどのような歴史を刻んでいくのだろうか。

平成31年3月25日、某大学大学院社会学専攻修士課程を修了した。通信教育課程である。短期大学、大学も他大の通信教育を終え、家庭の事情で大学進学を諦めた高校3年時から、履修しつつも卒業に至り得なかった大学の期間等も含め、通算実に50年後に大学通信教育課程に一応の終止符を打った。

公務員として勤務しながら学んだ最初の大学は、8年在籍したが、取得単位不足で卒業は叶わなかった。

昭和時代の半ば。この大学での2回目の夏期スクーリング。初日に、6週間東京で過ごすための資金全部が入ったバッグを盗まれた。教室にバッグを置き、廊下に出てわずかに目を離した時だった。すぐさま、室内に1人、本を読んでいた男性に状況を話し、近くにある私鉄駅に走った。男性のおぼろげな記憶では、青色の半袖シャツを着た男らしき、を頼りに二手に分かれて駅まで突っ走り、ホームの端と端から確認したがいなかった。手助けしてくれたその男性と学内の守衛室に行き、盗難にあった旨届けると、地方からのスクーリング生を狙った犯行で、毎年何名か被害にあうと守衛さんは事も無げに言った。幸いにして、全期間の宿泊代と朝食代は払い込み済みであったが、昼食代や夕食代、交通費他雑費と予備費が入っていた。ポケットには徹底的に節約してなんとか1週間程度は過ごせるほどの小金はあった。しかし、翌月の給料日まで丸々1カ月。どう過ごすか。危機意識の欠如を猛省したが後の祭りである。盗難にあったという事例は聞いてはいたが、よもや自分に降りかかるとは思ってもいなかった。

家に頼るにも祖母ひとり、金に余裕はなく、余計な心配をさせるだけ。とても打ち明けられない。職場に前借はできず、薄給の同僚等も金を貸せる余裕はない。

かといって、大都会の空の下でサラ金から借金するのは身震いするほど気が引けた。田舎の若者の世間知らずの気持ちが頑なに大都会での借金を拒ませた。

働いて稼ぐしかない。宿舎で一緒だった先輩とバイト情報誌を片手にバイト先を探した。条件は宿舎のある本郷三丁目にできるだけ早く帰りつけること。

朝から講義があるので夜間の仕事。ようやく見つけた渋谷のバーのボーイ兼雑用。渋谷は宿舎から学校までの単に乗り換え地点に過ぎず、夜の仕事の経験は全くなかった。店では、23時30分まで働き、渋谷発本郷三丁目までの零時前の最終便に乗り込むや、たちまち爆睡。宿舎近くの自販機の缶コーヒーの香りは寝ぼけた頭を覚醒させ、甘味が疲れた体を蘇らせた。

仕事は、40台と思しきバーテンダーがいろいろ教えてくれた。客の入りの多い夜、マネージャーが私に残れというときも、「こいつは帰りが遠いから帰らせて」「忙しいから」「帰らせてと言ってるだろ」と持っていたアイスピックを、流しに叩きつけるようにして言い放ってくれた。マネージャーはそれ以上言わず、お蔭で私は最後まで最終便で帰ることができた。東京の電車等連絡網をほとんど知らず、くたくたに疲れている身には慣れた電車に一刻も早く身をゆだねることが何よりもありがたかった。

最後の日、去り際に厨房の彼と目が合い、軽く頭を下げると、彼は「おごりだ」と缶コーヒーを一本くれた。終電の席でずっとコーヒー缶を握っていた。給料日までのつなぎ資金をやっと稼いだという安堵感よりも彼の優しさが厚く重く胸に沁みていた。本郷三丁目の駅まで一瞬の睡魔にも襲われず着いたのは初めてだった。

駅前の焼き鳥屋台で串焼きを2本買い、もらった缶コーヒーを飲んだ。うまかった。大都会の夜の空の下。わずかの日数ではあったが、違う世界で、働くとも言えぬ、店内での、身のこなし、振る舞い、柔らかい対応等々、教えられ、ただ学んだ。そして、彼、バーテンダーの侠気。その後の40年に及ぶ職業生活で私はついに、彼が発したような言葉に出会うことはなかったし、修行不足のせいか、私自身が発することもなかった。

大都会の夜にひしめく中の、一軒のバー。そこに、有職でありながら、スクーリング初日に持ち金全部を間抜けにも盗まれ、途方に暮れて生活費を稼ぎに来た、経験もない田舎の若者に力を与えてくれたバーテンダーがいた。ただ、ストレートに感謝しかなかった。

その年のスクーリング単位はかろうじて取得できたが、結果的に、業務の多忙にかまけ、8年在籍で必要単位の取得に至らずその大学の卒業は叶わなかった。しかし、その後、他の短大、大学と通信課程で学びなおし、その過程でありがたいことに、先の大学の取得単位は部分的に認定された。

通信教育課程は、今でこそ、リタイアされた方や中高齢者の再度、再再度の学びのため、また主婦の方の学び、そしてビジネスマンや起業のためのリカレント教育等多種の分野が広がっている。自治体においても、通信課程における手段も併設した高等学校の運営にも力を入れている。

また、通信課程も手軽に楽しく学べる課程と社会に紹介され、洒落た履修科目名も喧伝され、それなりの受講生も存在し、活況を呈していると考えられる。

最近では、双方向性のシステムの中で学生と教授が発信受信し、スクーリングさえ必須ではない学校も増えてきている。

私が最初に、通信課程の勉学の途についた大学で、受講生の一人が、一カ月のスクーリングに出席することが業務上どうしても会社で許可が出ず、退職してスクーリングに出席したという話を珍しくなく聞いた時代である。

入学するのは書類選考で楽だったが、卒業は相当に困難であった。私が最初に就学した大学は、卒業率は4、5パーセントにすぎなかった。これは4年で卒業の場合であり、5年以降いくらか上乗せされる。入学試験のある大学院は修了率は高い。

勉学の意欲を持ち、弛まず、強靭な継続性をもってテキスト、レポート、試験そして、卒論をこなしていき、ようやく通信教育の登攀を終え、幸運にも滑落することなく下山し得たとき、そこに達成感とある種の誇りが満ちてくる。

知識自体は、書籍、メディア媒体、知人、専門家等からほとんど万能に得られる時代である。大学の存在価値は、知であり、学風であり、歴史であり、物理的な建物そのものであり、人脈、他にも数々あろう。

しかし、真の友人を作ることは大学の持つ、通信では得られにくい大きな相違であり、利点であると私は思う。社会人として職を持ちながら、業務の補助線として、あるいは、将来を目指す研究のステップとして通信課程を考えるとき、その時、青春の熱誠は傍らにはない。不羈奔放の構想もまた遠方に追いやられる。

徹夜で議論を交わし、人生を熱く語り、痛飲し撃沈し、介抱し、介抱される。

古い言葉の上、偏頗な見解で恐縮だが、「友を選ばば書を読みて、六分の侠気、四分の熱」の世界観は今も健在なのではなかろうか。

通信教育は孤独だと、多くの人がそう言う。しかし通信教育の履修のみが孤独なのではない。学ぶことはどのような形態であれ、結局は、自分自身への刻苦である。最終的には己自身に回帰していくだけだ。単身で理解していくしかない。その意味では学ぶ人すべてが孤独のうちに学びと相対している。私は、空白はあるが、延50年大学通信教育と相対してきた。学びの心情の原点も周辺もここ以外にない。学びを早く往生させろ。そういう内面の声も幾年も聞いてきた。世の中には学校教育を義務制だけで終え、事業にも人間的にも大いなる成功を収めてきている人も多い。社会勉強、人間勉強こそが大事だという人もまた多い。

しかし、私にとって学ぶことこそが、独学道こそが、私の人生の真髄であり、私そのものである。頑なに傾注してきたことが実を結ばず、一見無駄な結果をもたらせたことも幾度もあった。しかし、後に途上で必ずそれは理解と納得さらには実現にと変化した。今後も私流の学び方で、私だけのテーマに肉迫して生きたい。それを許してくれた家族に心底から感謝あるのみである。

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