押忍(OSS)自分史

自分史活用アドバイザー 富永吉昭

平成30年真夏、九州の地方都市、フルコン空手の昇段試験。武道館は熱風が舞っていた。基本練習で約30分。館長の突き、蹴りに併せ、掛け声が場内に響き渡る。小中学生70名程度、高校・一般30名、総勢100名の裂帛の気合が迸る。

11年ぶりに昇段試験に挑んだ。齢67歳、道着の者中最高齢。この30分の基本練習ですでに朦朧。これで身体がもつか。これからが本番だ。受験を決意したのは、昨年7月。本格的に受験用の稽古に精出し始めたのが12月。稽古と言っても、スタンド式サンドバック相手の打撃、蹴りが主体、攻守織り交ぜながら蹴る。突く。そして型をIからVまで繰り返す。極め、投げ、固めの技を相手を想定して単独で行う。この技は以前やっていた他流派で長年修業し、少しは自信がある分野だ。昇段のポイントもこの極め、投げ等にポイントが高く配分されればなと不埒なことを期待した。20年前まで、20年間続けてきた技は体が鮮明に覚えている。足さばき、受け、連反攻等動きは何ら衰えてはいない、ジョギングを行い、軽い筋トレも怠りない。だから衰えないのは当然のことだと。しかし、全ては思い込みであり、錯覚に過ぎない。20年前他流派の時、1週間稽古を休むと動きの鈍麻が如実に分かった。1週間分の遅れを取り戻すため優に3回分ほどの稽古量を要した。ところが、今は、そもそも体力、技が低レベルで喘いでいることさえ気づいていないだけだ。以前の敏活な動きのイメージだけが脳裏にこびりつき、それがあたかも心身ともに現実に継続し続けているかのような哀切な錯覚の中に安住しているに過ぎない。

しかし、空手への意欲だけは、思いだけは衰えていない。庭に、見様見まねで自己製の巻き藁を立て、市販の空手の教則本を横目に最初の拳を突き入れてから50年。仕事の関係で遠のいた時期はあった。流派も最初の伝統空手から中国拳法、そしてフルコン空手等といくつかの変転もあった。その時期に各流派の拠って立つべき個性や独自性、そしてそれ故の生命があることを学んだ。規模の大きな団体もあり、小さな団体もあった。しかしどんな団体も意地があり、誇りを持ち、他流派への尊敬と清々しい敢闘精神に貫かれていた。少なくとも私はそう思う。

7年前に腰椎の手術をした。若い時から痛みがあり運動の妨げになっていたが仕事の退職に合わせ踏み切った。その時、空手を止めようかと初めて思った。しかし、結果は止めなかった。試合の選手として対戦を続けていくわけでもなく、グランドゴルフやゲートボール等と同じように健康法としてやればいいではないかと思ったからである。多様な流派を経験してきたため、良いところをイメージで抽出し、自分の中で新しい動きをこしらえることもでき、自分なりにトレーニングに生かす面白さがある。そして、実践空手を総集編として単独で続けてきた。腰の方は2年ほど前から以前のように強くはないが痛みしびれがまた出てきた。前回の手術時医者が場合によっては将来的に再発もあるかもと話した通りだった。運動時長時間身体を動かすと発生する。ジョギング中は、15分を過ぎるころから発生し、歩くときは10分程度で、空手のスパーリングの時などはものの3分程度で発生する場合もある。発生時は右臀部が疼き右足が棒のように硬直する。しかし、前屈や屈身等ですぐに痛みしびれは消え甦る。歩いたり走ったりするときは単独の動きであり屈身等もできるが相手のある場合はそうもいかない。結局、カップ麺に熱湯を注ぎ食べ始めるまでの時間しかスパーリングはできないことになる。「まるでウルトラマンだ。」しかし、どんな苦境にも人は合わせられると私は自分では確信している。苦境に慣れればいい。そういう状況に対決していく自分のルールを作り上げていくことだと。

昇段試験の自由組手の時間は通常2分である。それならやれる。そう思って受験を決断した。しかし、私の属する流派の方は県内には私を含め4名しかいない。うち1名は外国に留学中である。残り2名の方は私の居住地から50キロ離れており業務はさらにそこから40キロ離れた地域に通勤されており当然のことながら仕事が最優先であり、稽古時間はほとんどとれない。そこで、知人の元実践他流派の黒帯の方に頼み込みスパーリングの相手をしていただいた。自由組手はほぼこの人と行い今も継続している。ただ、型と逆技については、流派が違うので本部の師範に電話やメール、FAXでやり取りをし技の構成、つながり、DVDでも確認困難な型の正しい内容等聞き取り、修正し、自己鍛錬に明け暮れた。それでも本番では、型の誤りや逆技の修正を指摘された。

午後、型、逆技に次ぐ最後の課題として自由組手が始まった。私の年齢を考慮されてか対戦相手は5人である。全員黒帯。一人終え、二人終え、三人終え、防戦が多くなってきた。左上腕部に相手の廻し蹴りがヒットした。効いた。左太ももにローキックが入った。膝受けが一瞬遅れた。直後、我が右ローが相手の左腿に入った。「ローいいぞ。」審判の声が明瞭に響いた。体内に一瞬元気が湧いた。次の瞬間、相手の左の中段逆蹴りがボディに入った。後ろに弾け、床で後受け身で一回転。そこで時間。

最後の一人。蹴り、突き、蹴り、突き。防戦すらままならない。ただ頭部だけは明確な意識でガードした。無性に腹が立った。気迫が衝突する頂点で不意に顔をのぞかせる自分の不埒な優柔さに。蹴りと打撃が周到な瓦解力で、私の「単独練習の日々」に襲いかかってくる。マットに崩れ落ちるのではないかと不安が通過する。その場の全体に必死で耐えた。反撃は遠い昔のことのように思えた。そして、終わった。懸念した3分後の下肢の痛みしびれの心配どころではなかった。
文字通りフルコンの突き蹴りを味わった。しかし、下肢のしびれはなかった。打撃と蹴りの跡が疼き続けており、下肢のしびれを圧殺していたからだ。だが、安堵感が全身を覆った。達成感が柔らかく漲っていく。館内の熱風が窓外の松林を渡る清涼な風に一変した。組手終了近く飛び込んできた「がんばれ」の一声は、ただ、痛烈に、ありがたかった。そして、よくやった。我が身体。

なぜ、かくも長く空手を家族とは別の同伴者として共に人生を走ってこれたのか。離別や逝去で肉親に縁の薄かった私は幼年期から祖母に育ててもらった。祖母に感謝はしながらも、自分の人生を見つけ、生きていくための力を作っていかなければならないという思いを強く持っていたと思う。自分を鍛えていくための手段であった。「己こそ己の寄る辺」への思いだった。時は雑誌やメディアでスポ根ものの真っ盛り。その影響も大きい。空手への実践活動は時に離れ、又、密着し、流派を転変しながらも、基本的な単独練習は継続しつつ、思いを断念することなく喪失することなく、延々と私の骨肉に流れ続けている。しかし、現実の体感、技量、スタミナと脳裏に巣くう昔日のイメージとの落差を、左上腕に、ぶちまけたような、どす黒い内出血の跡が生々しく突き付ける。右肋骨の最下部が深呼吸、咳等で痛む。だが、どちらも折れてはいない。どす黒い痣も2週間ほどで消えた。痛みも消えた。

最後に、結果は合格だった。意外だった。落ちたと思い込んでいた。館長他の皆様に感謝の念を抱きつつ熱気で湧き立つような武道館を松の木陰を踏みしめながら後にした。50年前の巻き藁への最初の一撃が私をここまで連れてきた。「寄る辺になる己」は見いだせたか。そこに到りついたか。否である。「己の寄る辺」は必ずしも研ぎ澄まされた技術の延長上にのみあるのではない。ただ、営々と歩き続けていくことが、その一歩一歩こそが「己の寄る辺」であるに違いない。その、無数の一歩のつながり、それが私の自分史だ。

出典「己こそ己の寄る辺、己を置きて誰に寄る辺ぞ……」法句経

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