ときめきの自分史―人生の「たからもの」と出会う喜び

一般社団法人自分史活用推進協議会理事 河野初江

片付けを始めたら古い写真や日記が出てきて手が止まった、という経験をした人は多いことでしょう。写真や手紙や日記に触れたとき、私たちは自然にその頃に立ち戻り、自分を可愛がってくれた人や世話になった人のことを思い出すものです。そうした人がいたことや、感謝の気持ちを誰かに伝えたいという想いこそ、自分史をつくる大きな原動力となります。

私もまた96歳で亡くなった母の遺品を整理して出てきた手紙の束に息を吞みました。親元を離れ、岡山から東京の大学に進学した私が、日々書き送った手紙がそのまま残されていたからです。

緊張して迎えた寮生活初日の歓迎会の様子、寮で出会った個性豊かな先輩とのやり取り、季節とともに姿を変える緑豊かなキャンパスの風景、高原の大学寮で語り明かしたダンスサークル仲間との一夜、一般教養後にどの学科に進むべきかについての迷いなどが、小さな文字でびっしりと書かれていました。

母は私に「心理学科を選ぶように」とすすめたようで、それに対して私は「史学科を選びたい。なぜならその理由は…」と、親の意向とは違う学科を選ぶ理由を懸命に書き送っていました。自分のなかの何かが「これだけは譲れない」と言っていたのでしょう。「史学科を選んでも仕事にはならないかもしれない。けれどもきっと将来に生かしてみせる」と驚くほど強い調子で書いてあり、それは18歳の私が、おそらく初めて親の望むこととは違うことを口にした決意の表明でした。

「ああ、この親とのやり取りがあったから私は史学科に進んだあと懸命に古文書を読もうとし、『玉葉』(九条兼実の日記)や『愚管抄』(慈円)などの史料から何かを得ようと、もがいたのだ」と若き日を思い出しました。

父と母にあてた手紙の束。それは決して裕福ではない普通の家庭の子女である私を、東京の大学にまで行かせてくれた親への精一杯の感謝のしるしだったのですが、それらを母は残らず保管し、「私たち(父と母の名前が書いてありました)のたからもの」と書いた紙を張り付け、ひとつにまとめていました。

よく人は「私には取り立てて書くようなことも歴史もありません」と言います。本当にそうでしょうか。東京で、ひとりで頑張っていたとき、その娘を信じて成長を楽しみにしてくれていた親がいたことを、私は長い間忘れて前だけを見つめて生きてきました。けれども手紙の束はいつもそこあり、私が思い出すことを待っていたのです。

自分史は「人生で置き忘れていた大事なたからものに気づかせてくれる」ということを、母が残した「私たちのたからもの」という文字を見ながら、あらためて思ったものです。

学生時代の私(左端)。サークル仲間とともに