親父の俳句、「の」の字

自分史活用アドバイザー 富永吉昭

床の間に、死んだ親父の俳句が立ててある。小五で親父が死に、それから60年に近い歳月が過ぎた。死ぬ2,3年前に趣味の俳句の某協会賞なる賞を受賞し、副賞として花瓶が贈呈されていた。その内、花瓶は割れて廃棄されたが、台紙にしたためられた親父の俳句は60年を生き抜いた。変色した台紙に次のように記してある。

「百合の花○ 押し開らく力 われにもあり」繊細な整った字で書いてある。 ○は私には判読できない字だった。ひらがなの「れ」に酷似した文字である。しかし、「れ」であれば全く文意が通じない。それでも最初の頃は「れ」が百合の花への呼びかけ、あるいは百合の花の花開く姿や心意気のような花の総体を示す決まり文句なのだろうと思いなしてもいた。後に崩し字体であろうことは察しがついたが、いかなる漢字を用いたのかわからなかった。小学校、中学校時は、ごくまれに台紙が目に入り、ずっと「れ」と頭の中で反芻していた。調べたいとも思わなかった。まるで興味がなかった。それは自分にとって親父に興味がないことと同じだった。親父がこの世で残した唯一の品、「俳句」にぞんざいな姿勢で接していたに過ぎなかった。生前の親父との間には他人行儀な空間しかなかった。嫌いだったわけではない。私にも穏やかに話しかけ、いくつかのことを教えてくれたような気がする。柔和な人物ではあった。しかし身近にずっといなかったせいか親近感がまるでなかった。親父の生きた大半は肺結核との闘いの日々だった。

共に同じ空間に生活した期間は小4、小5の2年に過ぎない。太平洋戦争が終わり大陸から帰還して、結婚、私が生まれ2年後に妹が生まれて程なく離婚。ほぼ同時に親父は新天地で事業を夢見て北海道へ単身移転した。妹は母が引き取った。だから正確に言えば親父と生活したのは、2歳までと小4、小5の4年間である。北海道で会社勤務する中で肺結核が再発し、そして不本意にも帰郷するはめになった。私がもの心ついた時分には親父は結核病棟で長い入院生活を送っていた。母と離婚したのも郷里で教員のくちもあり母は親父に子供の為にも安定した教員の仕事についてくれるよう懇願したが、親父はまるで興味を示さず北海道で一旗揚げることに夢を燃やしていたため、母はついては行かず離婚したと、後に祖母が離婚の決断をした母の行為をやむを得ないことでもあると話してくれた。その時、私は痛烈に思ったことを覚えている。母には、親父を説得して家族4人祖母をいれて5人どうしても一緒に暮らしたいと反対しなかったのか説得しなかったのかと。親父に対しては、百合の花の微かな花を押し開く力なぞ悠長なこと言わず、端的に家族のためになぜ生きなかったのかと。父母のいる団欒のない祖母との家庭の寂しさを一点も思いやる気持ちはなかったのか。

北海道でどんな事業をやろうとしていたのか。しかし、親父のその思惑も肺結核の再発により夢幻と潰えたのであった。帰郷してからは結核病棟に入棟し闘病の日々を過ごすことになる。この時に親父は俳句に遭遇した。たまに祖母と見舞に行くと薄暗い病室のベッドの上で親父はバターのスライスを入れたケースの横に句集等を置いていた。

 その時に、枕もとの花瓶に百合の花が差してあったか定かではない。祖母によると、この時期病棟の俳句好きの患者さんたちが俳句の同好会を結成し、活動をしていたらしく、親父にとっても暗く長い闘病生活の中の僅かに心癒える、楽しい時間だったに違いない。

 高校生になって親父が俳句で言いたかったことを考えてみたりすることもあった。躍動的でない、微かな弱々しい力、しかし、表現が適切であるかどうかはわからぬが、そのように取るに足りない力であっても、このように、僅かづつ、しかし確かに、百合の花を開かせていくこの力。間違いなく自分にもある。いや、あってほしい。親父はそう思ったのではなかろうか。病に罹患し社会生活は閉ざされ、ただ、日々闘病にあえぐしかない親父の切望に近いこの思い。句として表わしたかったのではないか。そのようにも受け取れる。しかし、「れ」の字は依然としてわからなかった。

 そんな時、ある日、妻とK市にある書道会館に行った。親父の句を持って。 書道会館なら、あるいは判読できるのではないかと思ったからである。そして、会館の受付の方に句を広げ見てもらったが、受付の方も返答に窮して「申し訳ないですが、また後日連絡いただいて、講師の先生がいらっしゃるときに来ていただければと思います。」とのことであった。当方もお礼を言って去ろうとしたときに、入れ替わりに70代半ばの男性が入ってきて、受付の方に事務的な言伝をする様子。その時、受付の方がその男性に当方のことを話していただき、その男性がまさに講師の先生である旨話された。そこで早速、俳句を取り出し先生にお示しすると、電光石火、回答が示された。

 「百合の花の押し開らく力われにもあり という句ですね。のという文字が重なるときに後ろののを漢字にします。この句では能を、のと読ませています」

 「このれという文字に似た文字が能の崩し字体なのですか」「そうです。のが重ならないように後ろののに能の字をあてたのです」。50年以上曳きずってきた、喉に小骨の刺さったような疑問が今一瞬に解けた。しかし、感動は特になかった。人生に対する親父の無力感、敗北感、家庭を崩壊させた罪悪感と共に生命力に満ちた百合の花に託した新生への切望はぼんくらな私にも俳句から読み取れていたと思う。生活は形式では断じてない、しかし親父の句は形式を踏んでいた。目前に予想される残した家族の生活の困窮と離別した母妹の寂しさに現実的な思いを致さなかった男が、俳句の構成のルールに確りと則って50年を超えて息子に俳句の文字遣いに疑問を抱かせ続けてきた。そのことは俳句によって自らの生きざまを注視させ続けてきたとも言える。 私は、過日、親父の俳句台紙を専門店で補強してもらった。長い年月の間に生じた台紙の沁みは変色が進み、書かれた親父の文字をかなりの程度読みづらくさせているが、あの文字は、私の中では「れ」のままに今も生き続けている。