写真と自分史(その2) 増山たづ子という奇跡
「ダムに沈んだ村」と聞いて思い浮かぶダムや村はあるだろうか。
記憶の新しいところでは、群馬県の八ッ場(やんば)ダムがあるだろう。2015年から工事が進められたものの、民主党政権時代に一度は工事の中断が発表され、その後再び工事が進められるなど二転三転したことが話題となった。令和2年(2020年)に完成した八ッ場ダムの下には470世帯の民家やJR吾妻線、国道145号線が沈んだ。
ひとつの生活圏が、人為的に消滅させられるということを、代々その土地に暮らしてきた人たちはどう受け止めたのだろうか。当事者ではない私たちがそれを知るには、記録や資料を頼るしかない。
八ッ場ダムに限らず、ダムの底に集落が消える頃になると、多くのメディアが取材に取り上げる。報道マンだけではなく、時に写真家やルポライターなどもドキュメンタリーの題材として現地に足を運んだに違いない。それは悪いことではない。社会的使命感に燃え、現地の人に寄り添い、記録を残すからこそ、後世に語り継がれる貴重な史料になるのだから。
しかし、プロである報道マンや写真家、ライターが現地取材をしたものは、どこか見せるためにつくられた「ふるさと像」の匂いが漂うのも否めない。
その意味において、岐阜県徳山ダムの予定地となった徳山村の暮らしを撮り続けた一人の女性の存在は、ひとつの奇跡であったかもしれない。
「カメラばあちゃん」こと増山たづ子は、大正6年徳山村に生まれ育った普通の村人に過ぎなかった。ダム計画が決まり、いずれ村がなくなると知った増山は、押すだけで写る簡素なフィルムカメラ(ピッカリコニカ)を手に入れ、村中を撮り始めたのである。その動機は、「夫が戦地から帰った時に、村がなくなっていたら説明のしようがない」というものだった。カメラの知識もなく、フィルムの入れ方すら分からない当時60歳の増山が、こうして村の様子を残そうと懸命にシャッターを切り続けたのである。

徳山村は500世帯余りが暮らす集落である。村人同士は皆が知り合いだろうから、増山がカメラを向けても誰も警戒などするはずもない。増山の撮る写真には、村人たちの飾らない、自然な姿が写し出された。農作業に精を出す老人、分校に通う子供たち、村祭りで賑わう様子。そしてダム建設が始まり、ダンプカーが村にやってくるまで。
こうして1977年から来る日も来る日も撮り続けた写真は、2006年に88歳で亡くなるまでに10万枚あまりに上ったという。徳山ダムが完成したのはその2年後、2008年のことであった。
増山が撮り続けた写真は、どれもが村の人たちにとって掛けがえのない思い出であり、かつてそこに生活の場があった証しでもある。現在のようなデジタル時代ならば、誰でも気軽に写真を残せるだろうが、当時はフィルム時代。その意味で村の外部ではなく、村の内側に増山のような「写真家」が存在したことは、やはり奇跡だったといえるだろう。
彼女の残した数々の写真は、その一人一人にとっては自分史のひとコマであり、一方、俯瞰して見れば地域史の大きな転換期の記録であり、さらにいえば日本の経済発展史に見るひとつの特異な現象であったといえるだろう。
カメラを片手に自分の等身大で身近なものを撮り続けることは、デジタル時代の現在ではより簡単なことである。
その意味で、誰もが「内側から」撮れる何らかの世界を持っていることに気づきさえすれば、私たちも増山たづ子たりうるのではないか。
つまり、私たちがいつでも撮れる写真こそ、時が過ぎたときに奇跡の一枚になりうる。増山の残した数々の写真がそのことを証明している。
参考サイト https://www.buffet-museum.jp/wp-content/uploads/2023/09/d852528f92187493f92d3af11dc81d33.pdf


