「原発震災地」と「未完の自分史」

自分史活用アドバイザー 櫻井渉

自分史作りの制作途中、執筆者の健康などが原因で「未完の自分史」となることがある。「原発震災地」で長年の「夢」を実現した男性の自分史作りもその1つだ。2020年1月、この男性から手紙が届いた。「自分史作りを断念したい」。そう書かれていた。その背景に、「原発震災地」ならではの「苦悩」と「失望」があった。私は、この男性の「生き様」を形にしたかった。

男性はモスクワの大学を卒業後、ロシア語の能力を買われ、東京の大手企業に勤めた。しかし、空気が澄んだ土地で養鶏場を経営したいという「夢」を諦めきれなかった。反対する家族を説き伏せて、福島第一原発から約30~50キロ離れた「高原の村」に約3ヘクタールの養鶏場を開いた。苦しい資金繰りを考え、自宅や鶏小屋を自力で建てた。知り合いの養鶏場経営者から、運営のイロハを教わった。
鶏の餌の配合と健全な産卵環境作りに、力を入れた。鶏小屋の内部が適温に保てるように電球の配列に気を使った。天敵のキツネや野犬からヒナを守るため、鶏小屋の骨組みを強固にした。餌は牧草、トウモロコシ、ごま、塩、発酵菌、米ぬか、もみ殻などを配合した。
産卵した「平飼い卵」は、味が濃くておいしいと評判が高かった。鶏肉を使ってソーセージやチキンスモークにも取り組んだ。販路の拡大に繋がった。弁当を高齢者に配るボランティア活動に妻と参加した。地元住民から愛される養鶏場に成長。その経営方針が自治体広報誌で紹介された。
運営が軌道に乗った矢先だった。養鶏場を激しい揺れが襲った。津波を被った福島第一原発の爆発で、地域全体が「計画的避難区域」と「帰還困難区域」に指定された。壊滅的な被害を受けた養鶏場の経営は立ち行かなくなった。妻と辛い避難生活が始まった。
男性は、国や東京電力に損賠賠償を求める集団訴訟の原告団代表として、定期的に東京に来ていた。その都度、私は都内で会い、自分史作りの相談に乗った。目途が立たない養鶏場の再建や遅々として進まない裁判に、ストレスは溜まる一方だった。追い打ちをかけるように、原因不明の痒みが全身に広がった。原稿書きはストップした。

そんな時、男性の養鶏場がある「原発震災地」を訪れた。現地を見ながら、今後の自分史作りを話し合うことが目的だった。
男性が運転する車で、「帰宅困難区域」の隣接地に向かった。車内に設置していた線量計の針は振り切れた。道路脇の民家はどこもカーテンが引かれ、人の気配はなかった。小鳥のさえずり、虫の鳴き声は聞こえず、森は静まり返っていた。
地域の至る所に、汚染土を黒いシートで包んだ塊が山積みにされていた。その土地の前で男性は車を止めて、顔を曇らせた。そしてこう話した。

「汚染土を引き受けると現金が入った。汚染土の置き場を巡って、地域住民の間に分断が起きた。住民の絆は壊れかけている」

この後、帰宅困難区域から至近距離にある飲食店に案内された。年配の女性が1人でやりくりしていた。たまたま、取材に来ていた地元放送局の記者が差し出したマイクに向かい、この女性は次のように話した。
「放射能汚染なんて怖くないよ。だって、痛くも痒くもないもの。今さら、この土地を離れる気持ちはない。ここで死ねたら本望だよ」。言葉では言い表せない「思い」があるのではないかと考えた。
この日を振り返るために立ち寄った街中心部の飲食店で、男性は「もう一度、原稿に向かってみます」と気を取り直した。男性の気持ちに感謝して、東京に向かう新幹線に乗った。

しかしその後、男性の体調は急に悪化した。「なぜ、空気が澄んだ土地が放射能で汚染されなくてはならないのだ」。その「無念の声」が聞こえて来るようだった。
結局、この自分史作りは「中途解約」となった。
私は男性と会うたびに、聞き取った内容を「自分史用ノート」に書き込み、自分史作りのアドバイスに役立てていた。「なんとかして、男性の生き様を形に残せないか?」。同僚に相談した。そして、ノートに書き留めていた文章に手直しを加えた「手作り自分史」を男性に贈った。

男性から電話があった。「今までの取材内容を文章にしてもらい、感謝しています。私にとって大きなサプライズになりました」。そう語る声はかすれていた。
震災関連のニュースを聞くたびに、この男性の自分史作りを思い出す。反省を込めながら……。自分史作りは毎回、真剣勝負だ。改めて、自分史作りの難しさを感じている

2025年7月28日