自分史に残したかったアイヌ民族部族長の生き様
北海道にいた時、アイヌ文化が色濃く残る平取町二風谷で「アイヌ復権」に取り組んでいた部族長の1人と出会った。独自の文化・言語を否定され、差別と偏見に苦しむ生活を強いられた過去を語った。二風谷を流れる沙流川の聖域がダム建設で破壊される危機に直面した時、部族長は「ダム湖底の人柱になる」との心の内を明かした。当時、自分史事業に携わっていたら間違いなく、その壮絶な生き様を「自分史」に残すことを勧めたはずだ。
1990年当時、アイヌ民族が多く暮らす平取町は、太平洋に面した「紙の街・苫小牧市」から車でおよそ1時間半かかった。苫小牧東部大規模工業地帯を抜け、くねくねした山道を越えた先に、サケマスが遡上する沙流川に沿って「二風谷地区」が広がっていた。当時、悪法とも言うべき「旧土人保護法」の改正を求める動きがあった。また、「カムイ(神)が宿る」と信じられている岩肌がある沙流川流域に「二風谷ダム」を建設する計画があり、反対運動が高まっていた。その先頭に立って闘っていたのが部族長だった。
部族長から「バス停や集合住宅にアイヌ民族を差別する紙が貼られていた」「日本の学者はアイヌ民族の墓を荒らし、勝手に骨を持ち帰った」との話を聞いた。「アイヌモシリ(アイヌ民族が暮らす静かな大地)を和人に売ったことも、貸したこともない」との主張は、強制移住をさせられたアイヌ民族の「心からの叫び」だったのだろう。
すさまじい差別にたじろいだ。そんな時、部族長から電話が掛かってきた。
「勇払原野(苫小牧市東部に広がる湿地地帯)に美しいだいだい色の花が咲いている。見に行ってごらん」
部族長の言葉に誘われて、勇払原野に足を運んだ。だいだい色の花が絨毯を敷き詰めたように咲いていた。その美しさに目を見張った。自然を愛するアイヌ民族の「心の優しさ」を感じた。部族長との心の距離が一気に縮まった瞬間だった。
二風谷を訪れていた時だった。ちょうど昼食の時間になった。苫小牧まで戻って食堂に入ろうと考えた。部族長は「よかったら、私の自宅で昼飯を食べていきませんか。気の利いたものはありませんが……」と誘ってくれた。遠慮することなく、自宅にお邪魔した。
テーブルに山菜や豆などを炊き込んだ「ご飯」、汁もの、漬物が並んだ。正直、「質素な食事だな」と思った。でも、とても美味しかった。奥さんが茶碗などを下げた後、部族長はおもむろにこう語り掛けた。
「この食事の意味が分かりますか」
答えに窮していると、部族長が謎解きをしてくれた。
「この食事はアイヌ民族が『アイヌ(人間または信頼でき尊敬できる人間)』と認めた人だけに出す最高のおもてなしなのです」
嬉しさが込み上げた。そして、アイヌ民族が抱える「心の内」を聞きたくなった。それまで以上に、部族長の話に耳を傾けた。アイヌ民族の文化と信仰の対象だった沙流川の二風谷流域。二風谷ダムの建設で沈んでしまうとの緊迫感がさらに高まっていた。
建設省(現、国土交通省)の官僚が現地視察にやってきた。部族長たちは、ご馳走になった食事を用意して待っていた。官僚は部族長の誘いをきっぱり断った。黒塗りの乗用車に急いで乗り込み、ドアを乱暴に閉めた。乗用車は砂ぼこりをあげて走り去った。出迎えていた部族長たちの顔に落胆が広がった。部族長たちの気持ちを考えると、やるせない気持ちでいっぱいになった。
その後の対応について部族長に聞いた時だ。顔は疲労感に包まれていた。心労が溜まっていることが明らかだった。そして、こう語った。
「ダムが建設されたら先祖に顔向けが出来ない。私はダムの人柱になる」
さぞ、悔しかっただろう。二風谷ダムは、苫小牧大規模工業地帯への電力供給を主な目的に、予定通り建設された。しかし、工業団地への企業集積は進まず、計画は頓挫した。改めて、アイヌ民族に対する非人道的な行為に怒りが込み上げた。
今、ヒグマやツキノワグマと人間の関係が大きく問われている。自然界のすべてのものに「カムイ(神)」が宿ると信じて生活を営んできたアイヌ民族。部族長に「山でヒグマと出遭った時、どう対応するのか」を聞いたことがある。部族長は、こう話した。
「ヒグマはヘビが嫌いだ。山に入る時は長いロープを持っていく。出遭った瞬間、ロープを投げてヘビに見立てる。ロープが無い時は切り枝でヘビをまねることもある」
穏やかに話す部族長の表情が忘れられない。
自分史事業に携わり出した時、部族長の「生き様」を自分史にまとめられないかを考えた。しかし、部族長はダム建設反対運動の精神的な苦労や疲れから亡くなっていた。
自分史作りの同僚と札幌に出掛け、部族長の自分史作りを関係者に働きかけた。だが、すでに亡くなっていることから、部族長の「生の声」を盛り込んだ自分史作りは「幻」に終わった。自分史作りの中で、心残りの1つになった。
2025年9月20日


