【シネマで振り返り 14】父と子の心のふれあい、家族は何度でもやり直せる ……「家の鍵」
自分史活用アドバイザー 桑島まさき
やたら鍵をジャラジャラ持っている人をよく見かけるが、とりわけ若い方たちに多いような気がする。そんなに鍵を沢山持っていたら混乱することはないのだろうか。
ところで、自分が鍵を持ったのはいつだったかなと過去へとタイムスリップする。そもそも住んでいた家に鍵をかけたことはあっただろうか……。
高校卒業するまで住んでいた九州の実家は、玄関の内側からは施錠できるが、外側からはできない家だった。現在、外出する時ちゃんと鍵をかけたか心配になり執拗にチェックを繰り返す習慣がついているため、大昔のこととはいえとても驚いている。
家族に確認すると、就寝時は内側から施錠していたが、普段はずっと鍵をかけない状態。家族の誰かが家の中にいるので外側から鍵をかける必要がなかった。つまり、誰も家の鍵を持っていなかったのである。一個はあったのかもしれないが、一家をしきっていた母が高齢のためよくわからない。ともあれ当時は、少しの時間、誰もいない状態になっても何とかなったのだ。
少子高齢化の現在、子どもたちが最初に鍵を持つとすると、多分自分の家の鍵だろう。鍵を持つという行為は責任を伴うものであり、任せられた者としては大概、一人前と見なされたという満足が得られるものである。
イタリア人監督ジャンニ・アメリオ作「家の鍵」(2006年4月公開)は、イタリア文学を代表する作家の故ジュゼッペ・ポンティッジャの原作「明日、生まれ変わる」を下敷きにしている。ポンティッジャは実生活で障害をもった息子の父親でありそれ故に強いられた数々の苦労や悲しみ(勿論、喜びもある)の歴史を文学にした。
若い頃、出産で恋人を亡くしたジャンニ(キム・ロッシ・スチュアート)は、生まれてきた子どもが障害をもっていたことに不安を覚え、父親になるという現実から逃げ、子どもを手離してしまった過去がある。15年後、今はローマに住み妻と生まれたばかりの子どもと暮らしている彼のもとに、過去の罪(?)のツケが回ってくる。一度も会ったことのない息子のパオロ(アンドレア・ロッシ)の伯父に呼び出され、「パオロをミュンヘンからベルリンのリハビリ施設に連れて行って欲しい」と依頼される。
ベルリンへ向かう列車で15年ぶりに息子と対面するジャンニ。罪の意識と我が子への情愛の狭間で不安と困惑を隠しきれない父とは対照的に、パオロは天真爛漫で明朗活発。
ベルリンのリハビリ施設にはパオロよりもっと重度の障害をもった子どもがかなりいて、ジャンニはそこで娘を献身的に介護するニコール(シャーロット・ランプリング)と知り合いになり、同じ境遇の者同士心を通わせていく。
かつては障害をもった子どもの親になることを拒否し〈逃げた〉父親ジャンニは、ハンデを持っていながらも明るく一生懸命に生きる息子の姿を見ているうちに、不憫で守りたくなる。介護の大変さに途方にくれ自信をなくしたり、いとおしさでたまらなくなったり、試行錯誤を重ねながら少しずつ親子の絆を確認していく。リハビリ施設にパオロを運ぶというお役目を果たしたものの、息子をそこへ置いてイタリアへ帰る気になれないでいた。パオロは多くの鍵を持ち自慢に思っているが、父はそれらを息子がきちんと使えるかが心配で喜べない。
写真と手紙でしか知らないノルウェーに住むパオロのガールフレンドにメールを送る手伝いをしてやるジャンニは、息子のために船でノルウェーへわたる。父と子は空白の時間を埋めるかのように心の旅を続けるのだった……。
過去、息子の存在そのものを否定し自分の人生に鍵をかけてしまった父は、自分とは違うハンデを背負った人間(=息子)を受け入れる心の準備をする。
息子以上に過酷な人生を送る娘を自分の人生を犠牲にして介護するニコールの生き様を引き合いにだし、男(=父性)と女(=母性)という本質的な差異を浮き彫りにする。脆く繊細でとても厳しい現実には耐えられそうもないハンサムな父親を「アパッショナート」のキム・ロッシ・スチュアートが演じることで、忍耐を要する介護の現実を突きつけ、決してそれが一筋縄ではいかない人生であることを暗示する。
それでも、何とかなるもの! 人間として生まれてきた以上、障害があろうとなかろうと苦労はつきもの。家族問題は時間を積み重ねることで解決できるという希望を感じる結末が嬉しい。傑作だ!
※ 「家の鍵」(2006年4月8日公開)
家の鍵 : 作品情報 - 映画.com