我が青春の日の健さん(映画と自分史)
昭和30年代にこども時代を過ごしたアドバイザーの河野初江が辿る、ちょっと懐かしくて、ちょっと楽しい自分史の散歩道。今回は映画で思い出す自分史です。
我が青春の日の健さん(映画と自分史)
高倉健さんが亡くなった。それほどファンだったというわけでもないのに、私の大事な青春のひとこまに、健さんの映画がどっかり座っている。
私にとっての健さんは、60年代に一世を風靡した「日本剣客シリーズ」「網走番外地シリーズ」ではなく、70年代に封切られた「八甲田山」や「幸福の黄色いハンカチ」の中にいる。封切られたのはともに1977年。「幸福の黄色いハンカチ」は結婚の翌月、夫とふたりで見た。なんだかんだと回り道をする健さんに、「何をグズグズしているの。奥さん待っているのに」と半ばじれながら、見たような気がする。
映画「八甲田山」がなつかしいのは、残業続きで家に帰れない自分と、雪山を彷徨する兵士がどことなく重なって見えていたからかもしれない。私は25歳、社会に出て3年目だった。新規事業の『週刊就職情報』誌の編集を担当していて、常時3号分150ページぐらい動かしていた。眠い目をこすりながら、遅くまで仕事をした。
でも、私よりもっと大変な仕事をしている人たちがいた。それは求人広告制作チーム。ギリギリまで売ってくる営業チームのために、毎号何百件という求人情報を発行前夜まで受け付け、制作し、翌朝には書店に並べるという荒業をやってのけていた。
編集も制作も女性が多くて、上司もまた女性だった。夜も更けてくると、眠い、家に帰りたい、顔はへらへら笑っているが目は眠っているという者が増えてくる。すると上司のK女史がすかさず元気のいい子を呼び寄せて、「あれやろう」と言いだした。「あれですね!」言われるほうも心得たもので、すでに目が輝いている。ただちに数人の隊列ができ、「雪の行軍始め!」の号令のもと、映画「八甲田山」の雪中行軍の歌を歌いながら机の間を行進した。ときには興がのって「天は我々を見放した」と言いだす者もいた。
みな仕事の手を止め、底抜けに明るい彼女たちを目で追った。ご丁寧にも室内を一周し、上司のもとに上気した顔で戻り、「隊長行ってまいりました」と彼女たちが敬礼をする頃には、見ているみんなも生気を取り戻し「さ、夜明けまで頑張るぞ」となるのだった。
新田次郎の原題には死の彷徨という言葉がついているし、日本の山岳史上最悪の遭難という極限状態の組織と人間のあり方を描いた映画だったけれど、組織も人も若かった私たちはそれを笑いに換え、力に換えて、困難な仕事を切り開いていったんだなぁとなぜか愛しい。健さんの訃報を聞いて、ひとつの映画が私の自分史の中で、とてつもなく大きなものに思えた夜だった。