「事実」の危うさについて
過去を振り返り、言葉に残すこと。
これは自分史に取り組む上で、最も基本的な行為といえる。
言うまでもないが、体験を思い出し、言葉や文字として表すとき、それは事実に基づいていることが大前提となる。体験していないことを体験したことにしてはいけないし、意図して針小棒大、誇張して表現することも慎まねばならない。仮に自分史が活字となり、書籍という形態として完成した場合、それは時間の経過とともに一定の説得力を帯びてしまうからだ。
もちろん市井の民が書き残した自分史が社会全体に与える影響は小さいかもしれないが、少なくともその家族や子孫となる人にとって、それは一族のアイデンティティにかかわる重要な文献になり得てしまう。活字にはそうした無言の力が帯びるからこそ、事実に反する記述は避けなければならない。
しかし問題は、「事実」はとても危ういという点である。どういうことか。
二つの体験談を例に考察してみたい。
ある日の帰宅途中のこと。終電で最寄り駅を下り、私は足早に自宅へと向かった。この国道の信号を渡れば、家まではあと2分ほどだ。
人けのない横断歩道に立ち、歩行者信号が青になるのを待っていると、右側からやってきたタクシーがすっと止まり、私の目の前でドアが開いた。誰かが降りてくる様子もない。ただ運転手が私の方をじっと見ている。そこで「ああ、勘違いしたのだな」と気づき、私は運転手に向かって「呼んでませんよ」とジェスチャーして見せた。すると運転手は私をにらみ、「ふざけるな」と吐き捨てて走り去って行った。彼も不愉快だろうが、私も理不尽な気分を味わった。
さてここで「事実」はどこにあるだろうか。
自宅まであと少しのところで、タクシーを止めるはずもない。もちろんそれが私にとっての事実である。しかし、運転手にとっての事実は違う。彼の目には、横断歩道に立つ男が手をあげていたと映っていたわけである。彼の今日の業務日誌には「近ごろはタクシーをバカにしたタチの悪い連中が増えた」などと書かれているかもしれない。事実誤認であっても、それを解消する手立てがないままに積み重ねていけば、それはその人にとっての事実であり、自分史を形成していくことになる。
もうひとつ例をあげよう。
それはやや混雑した電車の中でのこと。
ある駅で、杖を突いたおばあちゃんが乗車してきた。シートの隅に座っていた若者がそれに気づき、「どうぞ」と席を立ち、譲ろうとした。なかなかの好青年である。しかし、おばあちゃんは「すぐに降りますので、大丈夫です」と遠慮した。よくある光景ではある。
ところが二駅が過ぎ、三駅が過ぎてもおばあちゃんは電車を降りない。ますます混雑してきた車内で、おばあちゃんは杖を突きながら手すりにしがみついているようにさえ見える。これには先ほど席を譲ろうとした青年は気まずくなったのか、うつむいてスマホをいじっている。
もしここで新たに乗車してきた人がこの光景を見たらどう感じるだろう。
「杖を突いたおばあちゃんが目の前にいるのに、スマホに夢中で席を譲らない若者がいる」と見えてもおかしくない。そしてSNSに「近ごろの若者はけしからん」などと投稿するかもしれないのである。
この車内の出来事は、どの時間(タイミング)で切り取るかによって、事実は変わり得るのだということを私に示した。
こうしてみると私たちは普段なにげなく目にしている景色を、そのまま「事実」としして認識し、記憶し、発信することには「危うさ」が付きまとっていると気づかされる。
つまり、冒頭でも書いたように自分史は「事実に基づいていることが大前提となる」ということがそもそも「危うさ」を抱え込んでいることに留意しておかなくてはいけないのである。 事実に対する謙虚さを忘れた時、自分史は誰かを一方的に断じ、罰し、留飲を下げるための手段に陥落しかねないというわけだ。


