父親の最後の言葉は「逝きとうない」である
父親の最後の言葉は「逝きとうない」でした。
父は私の目を見て弱々しくそう呟いたのです。
父が亡くなってから10年、私は未だにこの言葉を咀嚼できていません。いやむしろ向き合ってこなかったと言ってもいいかもしれないのです。
自分なら、死の間際で一体どんな言葉が出るのだろうか?
自分のライフストーリーを振り返る機会にそんなことを思い出してしまいました。
その日の朝、大阪に住む私に広島に住む弟から電話がかかってきました。
“おにいちゃん、父さんここ数日が峠のようじゃ”
父は1年半ほど前に、多発性骨髄腫と言われる血液の癌と診断されていました。決定的な治癒ができることのない病気で、発見当時は第三ステージに達しており、2年以上の生存率は見込めないと診断されながらも闘っていたのです。
会社に連絡をして、新幹線に飛び乗り父が入院する広島の病院に着いたのは午前10時でした。
弟は広島の別の病院に入院する母を迎えに出ているようで、終末看護のために個室に移されていた病室で父は一人痛みにうなされていました。
意識はありますが、全身の痛みは相当激しいらしく、顔は苦痛で歪んでいます。
見兼ねた私は、看護婦さんを通じて担当医に面会を求め、現状経緯と今後の処置方法について改めて意見を聞きました。
“小野さん、お父様は残念ですがもう長くありません、このまま痛い思いをされるよりは、モルヒネの投与を多くして痛みを和らげて差し上げる方が賢明かと思います。”
モルヒネの投与を多くするということは、意識はそのままなくなり死を早めるという方法です。
“弟と相談をさせてください! ”
母を迎えに出ている弟を待つと同時に、鎌倉に住む妹に電話をかけました。
“状況は数日じゃのうて、数時間に変わったけん、間に合うかどうかはわからんがすぐに戻ってきんさい”
最後は、なんとか家族全員で見送りたい。
一縷の望みは、1秒でも長い父の生存から変化していました。
母を連れ戻ってきた弟と相談をした結果、妹が到着次第、父の痛みを取り除くことを決断しました。
夕方4時過ぎ、3人いる子供達を自宅に残し、駆けつけた妹が病室に飛び込んできました。
点滴の準備ができ、それをカテーテルにつなぐ時に、もうろうとした意識の中でうなされている父が私の目を見て言いました
“逝きとうない”
父にはわかっていたのでしょう。
“大丈夫、痛みを和らげるだけじゃけん”
父への慰みというよりは、むしろ自分への慰みのように言葉を吐いていました
薬が効いてきたのか、父は穏やかな寝息を立て始めました。
部屋には母と父、そして兄弟3人が何年かぶりの家族水入らずです。
私が高校1年、妹が中学1年、弟が小学校1年の時、それまで京都で暮らしていた我が家は父の実家である広島で祖父母と同居をすることになりました。
このときから寮暮らしの私、その後はそれぞれ所帯を持ち兄弟には子供が生まれ、5人家族水入らずという状況は実に25年ぶりです。
意識はないが、まだ息をしている父を囲んで思い出話をたくさんしました、思い出の一つ一つが珠玉となってとても愛おしく感じました。
不思議ですが幸せな、穏やかで、暖かな気持ちが病室に溢れていました。
そんなかけがいのない時を数時間送っていると突然父が呻きました。
ぎょっ! としました、たおやかだった心電図の音が少し早まります!
全員が緊迫して父を取り囲みます
父を覗き込んでいた母が、父の頬に手を当てて
“大丈夫じゃやけんね!心配せんと、ありがとうね、さようなら〜”
そうすると妹が
“母さん、まだじゃけん、父さんうめいとってだけじやよ”
間髪入れずに弟が
“母さん、相変わらずおっちょこちょいじゃ!父さん死にきれんわ! ”
臨終を前にした父を囲んで泣きながら大笑いをしている、なんとも奇妙な家族の風景がそこにありました。
不謹慎かもしれませんが、私たちは母も兄弟も父のことが本当に好きでした、そこには家族にだけしか共有できない満ち足りた空気がありました。
それから間も無く、心電図の波線は1本の線となり、その上の数字は0を示しました。
自分が築いた家族に囲まれ、泣き笑いで送りだされた父を客観的には幸せな最期だったのではないかと私は思います。
しかし、人としての「生」への執着を強く持った父はこの時一体どう感じていたのでしょうか?
私は父の最期の言葉には、実は意外な感じを持っていました。
「そうなのか、親父はまだまだやりたいことがあったんだな」
息子としてバイタリテイーのあった父のことを改めて思い起こし、戸惑いも感じながらもっと話をしておけばよかった・・・
この時はつくづくそう感じずにいられませんでした。
最後はどういう形なら幸せといえるのだろう?
「ありがとう」と言って最期を迎えることができることが答えなのか。
その言葉を託す人がいる事、聞き取ってくれる人がいる事が答えなのか。
正解は誰にもわかりません、本人にもわからない事なのかもしれません。
広島育ちの父、山口育ちの母、関東、関西、広島で家庭を持った兄弟、家族だけが解る空気と言葉で父の最後を見送ることができました。
それでも、父の最後の言葉を思い返し、やはりそれを咀嚼しきれていない自分に直面しています。
でもそれでいいのかもしれません、いつまでたっても答えは出ない、それが答えです。
だからこそ、人生の途中で自分を振り返る事にも意味があるのではないかと感じています。