ときめく自分史づくり―戦争体験と自分史
2025年は太平洋戦争が集結して80年目となり、次第に当時の体験を語れる人も少なくなってきました。けれどもだからこそ今、語り残そうとする人がいます。太平洋戦争の影響は戦場だけでなく、日々の暮らしにも及びました。そうした庶民の体験もまた貴重な歴史的資料であり、自分史を手がける者として、その記憶を掘り起こしていきたいと思っています。
太平洋戦争では300万人もの日本人が亡くなっています。『ある昭和史―自分史の試み』で色川大吉氏は、その数字の中身に言及しています。曰く、「男子4人に1人が出征、2世帯に1人以上が兵士を送り出した。5世帯に1人が死に、少なくとも2000万人をこえる人びとが悲嘆の涙にくれた。1500万人が罹災して家を失い、500万人もの人が失業した。350万人の学徒が動員され、300万人の女子が工場に働きに出た」……と。
戦争の体験者は戦場に赴いた人だけではありません。その背後には夫や息子を戦場に送り出し、その帰還を待ち望んだ多くの家族がいましたし、国内にあって勤労動員されたり、学童疎開をしたり、空襲で家を焼かれたり、死んだり、傷を負った人も多くいました。恋人と結ばれなかった、仕事に就けなかった、行きたかった学校に行けなかった…と人生が変わった人も少なくありません。
それだけに語られる戦争体験も多様です。戦後10~20年目のいわゆる戦中派世代が現役であった頃には、それこそ歴史としてまだ熟れておらず、生々しい体験が戦記物として語られていました。『週刊新潮』(昭和37年9月17日号~38年11月25日)が「悲しき戦記」という連載をしており、中国、南方、内地(特攻編)でのエピソードが収録されています。多くの読者を得たようで、これは『悲しき戦記』として新潮社から刊行されています。読むと、生死をわける極限状態のなか、敵も味方もなく、心が通じ合ったり憎悪を抱いたりする同じ人間として描かれていました。悲しいことですが戦中派にとっては戦場が、ある意味青春でもあったのだ、ということに気づかされます。
では、戦後80年を経た今はどんな戦争体験を聞くことができるでしょうか。今なお生存している語り手の中心となる世代は80~90代の方々です。この年代が語る体験は、おのずと子供時代の経験が多く、空襲から逃れて防空壕に入ったことや、学童疎開をしたこと、大陸から引き揚げてきたこと…などになってきます。
こうした体験は「みんなそうだった」ということで、ことさら特別な体験として意識されないことも多いようです。けれども、お子さんやお孫さんの「ぜひ知りたい」のひとことに勇気を得て語りだす方も多く、きっとご本人の中で「自分の子供時代の戦争体験を語りたい」という気持ちが眠った状態であったのだと思います。 自分史を手がける私が、「ぜひ戦争体験を語って欲しい」とお願いしたことがきっかけで話してくださる方もいます。そのように他者から働きかけられることで自分の体験が歴史的に貴重なものだと気づき、歴史的証言者としての自覚が呼びさまされ、自分史を作る意義に目覚める様子を間近に見てきました。戦争終結から80年経ちましたが、これからも戦争体験を掘り起こしていきたいと思っています。