カラオケは自分史の宝庫

私の母は今78歳でレビー小体型という認知症で、特に何か趣味というものもなく、一日中何もせず座ったままの時もあります。週に2回デイケアサービスに行きますが、特に人と交流しているわけでもないようです。
ただこの施設にはカラオケのセットがあり、いつも静かな母もカラオケを歌うときだけは大きな声で歌うそうです。正直楽しいとまでは言っていませんが、歌を唄うときの母は明らかにいつもと違うようで、まわりの方々もその時だけは母を一目おいてみるようです。
その話を聞き、カラオケ店に母を連れ出してみると、どちらかというと恥ずかしがりの母ですが、積極的に選曲をし、堂々と歌い始めます。持ち歌があるようで次々と選曲のリクエストもしてきました。いつも無気力な母とは明らかな違いを感じました。自分が唄うだけでなく、亡くなった父がカラオケでよく唄っていた歌を私が唄うと『上手い、上手い』と何度も褒めてくれ、認知症の進行が早まり、会話がし難くなった母と久しぶりにコミュニケーションが出来たようでした。私もさらに子どもと頃の歌を唄うと、母がまだ若かったころの家族の様子も思い出し、特に会話がなくても、自分史、家族史を考える空間となりました。

このような経験は同じ世代でカラオケに行っても感じることです。全く別の環境で育ち、知り合ったのはごく最近であっても、歌を通じてその差が一気に縮まります。私の世代ですと70年代のフォークブームのころと、80年代のニューミュージック全盛期の歌が異常に盛り上がります。単に自分が唄うためというより、聴き手を意識した選曲をするようになり、結局は皆で一緒に唄うことになります。

自分史は人間の数だけみな違うものが出来ると言いますが、このカラオケを通じて考えるとそうともいえない時期もあるように思えます。多種多様な現代とは少し異なるかもしれませんが、少し前の世代では、ほぼ共通して同じような物を見、同じ曲を聞き、同じような経験をしています。そのような同じ時代の出来事を回想し、語り合うことで、その裏側にあるそれぞれの自分史に共感し合えるのです。他人の自分史であっても、一歩違えば、自分の自分史になりえたのではないか、と思える他人事ではない自分史を感じることがあります。このような瞬間には相手の自分史に対してとても興味を持つかと思います。カラオケ店で考えても見なかった自分の青春時代の歌を他人が唄ったとき、そんなことを考えませんか? 同じ時代に生きていたことを感じる瞬間です。
最近一人カラオケをいうものもあるようですが、これは練習の場であって、自分史とはあまり関係の無いものかもしれません。
「今日一緒に来ている人のために唄う」ことが、今日のテーマを達成するための条件なのです。そんなことを意識して一度カラオケに仲間を誘ってみてください。

馬場敦(一般社団法人自分史活用推進協議会監事)

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