自分史を味わうための読書1 思い出はつくられる

一般社団法人自分史活用推進協議会理事 河出岩夫

「男たちの旅路」や「ふぞろいの林檎たち」で知られる脚本家の山田太一氏。去年(2023年)亡くなったのは惜しまれるが、氏の生み出す作品はどこにでもいる平凡な市井の人びとで、劣等感や負い目を抱えて生きる姿に寄り添うものが多い。

そんな山田太一のエッセイ集『夕暮れの時間に』(河出文庫)に、思い出にまつわるエピソードがある。浅草に生まれ育った彼は、幼い頃に母親を亡くし、父親が懸命に働いて育て上げてくれたことに深い恩義を抱いていた。大学生になった太一青年を父親が呼び出すことがしばしばあった。待ち合わせの場所は決まって浅草雷門の前だ。いつしか山田太一にとって、父親を回想する際に思浮かべるのは雷門で待っている姿と決まっていた。

ところが近年になって、彼の大学生当時(昭和29年頃)に浅草寺に雷門が存在しなかったことが判明したという。大空襲で焼失したのち、松下幸之助の寄付によって再建したのは昭和35年のこと。つまり、雷門の前で待つ父親の面影は、山田がつくりあげた幻影だったわけだ。

浅草雷門

このような記憶違いは誰にでも起こり得るもので、自分史を紡ぐときの思い出も事実と異なる可能性は十分にある。『子どもの頃の思い出は本物か』(カール・サバ―著/化学同人)によれば、私たちの記憶は、思い出されるたびに再構築、再編集がなされているという。幼い頃の出来事であればあるほど、主観的で感情的なものの見方をしてしまうし、後付けの情報や知識が加味され、美化したり、手前味噌な記憶に上書きされる可能性が高くなる。時には体験していなかったことでさえ、その出来事が実際にあったと信じ込み、鮮明な記憶として蘇ってしまう(本人は真実だと信じている)ことさえあるとこの本には書かれている。

私の体験談だが、以前ある企業の会長さん(当時80歳)の自伝を手掛けたことがあり、その巻末に当時の役員を集めて座談会を収録することになった。すると、会長さんの思い出話を役員たちが口を揃えるように「それは違います」と訂正しはじめたのだ。会長さんも人がいいので「そういえば、そうだった」と苦笑いされていたが、もし座談会がないまま本が出来上がっていたら記憶違いの多い一冊になっていたかもしれない。

こうしたことを完全に防ぐことはできないにせよ、少なくとも印刷にかかる前に完成した原稿を家族や友人など近しい人に一度は目を通してもらっておくことを推奨したい。また、あとがきなどに「昔の出来事ゆえ、私の記憶違いがあるかもしれないが、その際はお許しいただきたい」といった一文を入れておくことも心得として有効だろう。

先の山田太一のエッセイはこうしめくくられている。

「あり得ないと充分承知しながら、思い出の父は、依然として雷門と大提灯を背にして『よう』とうなずいて、私の先を歩いていくのである」

たとえ思い出が事実とは違っていても、自分の中にある父の面影まで変える必要はない。大切なことは、記憶違いは起こりやすいという自覚と、謙虚さをもって自分史づくりに臨む姿勢ではないだろうか。

《今回取り上げた本》
『夕暮れの時間に』(山田太一/河出書房新社/2018年)
『子どもの頃の思い出は本物か』(カール・サバー/化学同人/2011年)