素敵な人生に出会える自分史活用アドバイザー

自分史活用アドバイザー 櫻井渉

自分史活用アドバイザーの「面白さ」って何だろう? 旅先の宿で、そんなことを考えた。喜怒哀楽に満ちた自分史筆者の人生に直接触れながら、自分自身を成長出来ることも魅力のひとつだ。制作途中、予想以上に思い出話が盛り上がり、筆者とアドバイザーの「枠」を越えた「人間関係」が生まれることも。自分史完成後、お付き合いが続くことも多い。「名刺1枚」で自分史作成を希望する誰にでも会える自分史活用アドバイザー。素敵な人生に出会える「資格」だと思いませんか。

自分史作りを希望する女性を地方都市に訪ねた。どことなく自信なさげに見えた。当初は話が弾まなかった。私の人間性を値踏みしているのでは?と感じることも。次第に心を開き始め、夫に支えられて「精神障害」を乗り越えた人生を語り始めた。
いじめ、偏見、差別を受けた。自分に自信が持てず、自宅に引きこもった。人前に出ることがとても怖かった。
夫に励まされ、習い事を始めた。再び、無視される日々。夫に八つ当たりした。でも、夫は黙って受け止めてくれた。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。「この人(夫)だけは信じて良いのだ!」と思った。その瞬間、目の前の霧が晴れ始めた。そして、「障害を持つ自分」を肯定的に受け入れることが出来た。やっと「幸福をつかめた」との思いが込み上げた。
その後、中学校の同窓会に笑顔で参加出来た。町内会の親ぼく旅行にも参加し、楽しい思い出を刻んだ。完成した自分史を手に、こう語った。
「夫がいたから今日がある。夫のおかげです。残された時間を夫と大切に生きたい」

「俺も松下幸之助のような男になってみせる」。1962年、先島諸島の港から、1人の青年が船に乗り込んだ。夢と希望に包まれていた。自信にみなぎっていた。見送りに来ていた島の仲間に思いっきり手を振り続けた。
青年が暮らしていた島は当時、電気が各家庭に通じていなかった。「ランプ」の光の下で勉強した。占領していた米軍の施設には、こうこうと明るい電気が灯っていた。この光景が忘れられない。「俺が島に電気を灯してやる」との気持ちを奮い立たせた。暮らし始めた東京で電気の専門学校に入り、猛勉強した。入社した電気会社では一番先に出社して、人一倍働いた。
上司からの評価は高く、仕事に手応えを感じた。さらに幅広い仕事をこなすには「電気関係の国家資格」が必要だと考えた。相次いで異なる国家資格を取得した。人が寝静まった深夜、街路灯の電気工事も率先して引き受けた。その努力が実り、ついに電気会社を興した。
「絶対に事故を起こさない」「人をきちんと育てる」を心に刻んだ。工事仲間にも恵まれ、経営は軌道に乗った。沖縄の地方新聞に、電気会社を紹介する記事が載った。「お前は島が生んだ松下幸之助だ」「故郷に錦を飾れたじゃないか」と言ってくれる仲間がいた。照れくさかったが、嬉しさが込み上げた。前だけを向いて、迷わずに歩いてきた人生は間違っていなかったと思う。会社は息子が継いだ。今、こう思う。
「今があるのは、これまで出会ってきた多くのアグ(友人)に支えられてきたからだ。感謝!感謝!の気持ちでいっぱいだ」
完成した自分史を持って、久しぶりに故郷の土を踏んだ。

コロナ禍が広がり出した時、幼少期の思い出だけに絞った主婦の原稿に出会った。生い立ちから現在まで書く自分史が多い中、新鮮な気持ちで読み進めた。生き生きとした文章が光った。子どものころ、誰でも経験しそうな身近な日常を描いた文章も多かった。
その一つが、ある夜、ふと目覚めると、自宅に居るはずの「母親」が姿を消し、その「心細さ」を綴った文章だ。「いつも悪戯ばかりしているから、母が私を置いて家を出て行ってしまったのだ」と不安感を膨らませた。玄関の外に出て、周囲を見渡した。街灯が夜道を照らしているだけだった。思わず、「帰って来て!」と叫んだ。寝ていた布団の中で泣き崩れていると、弟の手を引いた母親と父親が帰ってきた。弟が咳き込んだため、近くの医者に出掛けていただけだった。ホッとした。この文章の終わりに「良い子になるから、もう出て行かないで」と書き加えた。
すべての文章が整った段階で、この自分史に「挿絵」を入れて、より臨場感を持たせる工夫をした。プロの漫画家に依頼して、掲載する文章ごとに、挿絵を描いてもらった。挿絵を組み込むと、幼少期の風景を思い描きやすくなった。
自分史の「後書き」に主婦は、全力で愛情を注いでくれた父と母に「感謝の言葉」を贈った。

このほかに、小学校教員を退職後、フィリピンの山奥で暮らす子どもたちに25年間、絵本を届けながら図書館作りを進めた元女性教諭、現地の言葉をマスターしながら「香港の地」で貿易会社を起業した男性、夫婦の間で交わした「手紙」をまとめた大学教員、外国航路の船長として世界の港を回った経験をまとめた男性にも出会った。話を聞きながら、感動の連続だった。自分史作りで出会った「ご縁」を今も大切にしている。

2025年10月6日