私の自分史づくりー材料さがし 4
自分史活用アドバイザー 泉正人
様々な仕事を経て
日々を暮らしていくための仕事ですが、必ずしも自分に合っているとか、好きな仕事につけるとは限らないものです。私の場合、アルバイトを含めると30ほどの職業を経験してきました。
幾多の転職の中でも印象深いのは、花屋さんの仕事です。35歳前後の頃、岡山市内で就いていました。今となっては選択した動機は不明ですが、その後の私の人生に大きな影響を与えた期間でした。
花屋と言っても、もっぱら故人を飾っておくるための葬儀の花祭壇作りです。入社して最初に教えられたことは、現場では笑ってはいけないということでした。大変な仕事についてしまったという思いはありました。葬儀屋さんと同じ敷地内にある花屋さんでしたから、葬儀屋さんの会場へとお花を運びます。数としては自宅葬が圧倒的に多く、大きな会館を使用する立派な葬儀にもたまに出会いました。
冬の寒さが厳しく、荒天の日も多い北海道では自宅葬という形式は勿論、道路端に名札を付けた花輪というものを並べて立てることや、出棺時に茶碗を割ることなどは全く無かった習慣でしたので、戸惑うことばかりでした。
「死」に対しての向き合い方も様々な形があることを知りました。天寿を全うした場合と、病気や事故で歳若くして逝った場合とでは雰囲気も全く違ったものでした。
その頃の私の住まいは、高台に位置する斎場(火葬施設)とそこから続く広大な墓地から歩いて数分の場所にある小さな借家でした。何故、そんな場所を選んだのか?と尋ねられれば、なかなか思うようにはいかない人生の中で、自分なりに生きている意味を探していた時期であったからということ。そのためには「生」と対峙して存在するかのような「死」の意味を考えたかったから、あえて斎場と墓地の近くに住まいを見つけたのかもしれません。
この花屋さんの仕事は、突然発症した脳内出血のために一年ほどで退職することとなり、その病気の為に思いがけない形で岡山での暮らしは終わりを告げました。
少しでも幸いだったことは、それまで葬儀の仕事を通して人生の意味を前もって考えていたことによって、わが身に起きた、思いがけない人生の転機以後の苦しい時期をも受け入れていくための、心の準備はできていたことかもしれません。
その頃の葬儀の仕事や発病の出来事を残しておきたいという思いから書いたのが、自作中編小説「月見櫓」です。
仕事の思い出と言えば、好きで就いた訳ではないのですが、今でもふと心に浮かんでくる職業があります。
それは、交通誘導警備員です。建設工事現場や道路工事の現場でよく目にするあの仕事です。
延べ期間として3年近く就いていたでしょうか。きっかけは給料を日払いでくれるし、未経験でも良いということからでした。失業中で再就職が思うようにいかなかった時に頼りになる仕事でした。
何の経験もなかった私が初めて配属された現場は、岡山と倉敷の間の国道2号線バイパスの現場でした。自動車専用道の為、高速道路に近いようなスピードで走って来る車を2車線から1車線へ規制するのが役割でした。大きな風呂敷のような赤旗を、頭の上でただひたすらに降り続けましたが、何でこんな仕事に就いたのだろうという後悔ばかりが巡りました。
岡山ブルーハイウェイ(旧名)という、片側1車線のカーブや起伏の多い、郊外を走る自動車専用道のセンターライン上に埋め込まれる、センター鋲の交換作業に立ち会う現場がありました。突然車が現われるセンターラインに立って旗を振っていましたが、カーブの途中での作業では全く生きた心地がしませんでした。明日はやめようと思いつつ、その現場は1日で終わりました。
岡山から島根県へと向かう交通量の多い幹線国道180号線の舗装工事では、無線機を使ったかなり長い距離の片側交互通行をすることがあり、数珠つなぎの車を長い間停車させなければならず、背中には沢山の冷や汗をかき、胃が痛くなるような思いをしました。
岡山市内の交通量の多い3車線道の現場では、工事車両が出入りするたびに3車線全て止めることもありました。そんなことができるようになった自分の姿に自分が驚くと共に、仕事を通じて少しばかりの自信を持った時期でもありました。
最も長い期間携わったのは、倉敷市内での下水道工事現場でした。住宅街での通行止めなので、通行量は少ないのですが、住民との確執ですとか、一見柄の悪そうな工事関係者との連帯感とか、10代、20代の若い女性達が何人も警備員の仕事に就いているという不思議な光景も目にすることになり、様々な人生模様を目にした貴重な人生経験の時間でした。
同じように日払いの仕事として、建設工事現場作業員や引っ越し作業員のアルバイトも大変だった仕事として印象に残っております。
今では多くの人が訪れている岡山県立美術館新築工事にも参加しました。自分が通っていた工事中には、コンクリートむき出しだった壁が、完成時には綺麗な装飾で飾られて、見違えるような空間に生まれ変わった様子を見た時には、何だか夢を見ているような気分にもなったものです。
病気を患って地元に戻ってからは、清掃の仕事に多く就きました。理由は、余り多くを聞かずにすぐに採用してくれたからでした。本当にありがたいことだと思っております。
清掃の仕事は地味であり、できるだけ表には出ないように振る舞う仕事でした。作業中は自分と向き合う時間でもありましたから、病気をしたことによって自分の人生はこれで終わったのかなという思いをいつも感じていました。三十代の半ば頃のことです。
清掃の現場は中高年の女性が多く、そんな人生経験を経てきた強い人達との関わりを通して、随分と前向きな気持ちに変えて頂いたものです。
作業を終えて作業服から着替えた女性達は、見違えるように素敵な服装で帰って行きました。そこで共に働いている女性達は、様々な場所で働く能力がありながらも現実には受け入れてくれる場所が無くて、そこで働いていることにも気付きました。世の中の矛盾を思いました。
振り返れば、自分でも呆れるほどに沢山の仕事を経験してきたものだと思います。そして、そういう生き方は世間からは否定的に見られがちですが、それだけ沢山の経験をし、様々な業界の実情を目の当たりにしてきたということであります。
私にとっては、実体験をもとにした架空の小説を書き残すことが、自分史を書き続ける作業と同じような意味を持っているのかもしれません。そして、私が小説を作る時には、そういった転職の数々の場面で目にした光景が基になっていますので、人生に無駄はないという言葉に嘘はないと、いつも思っております。
そろそろ本気になって、今までに経験してきた出来事を体系的に書き残しておきたいと思うようにもなってきました。これも57歳という年齢のせいでしょうか。