自分年表作成と写真整理④-7

一般社団法人自分史活用推進協議会理事 前田浩

~自分史年表が出来上がったら、次は写真整理を楽しみましょう~。

例えば「自分とは何者か」振り返ってみませんか?
ただ時系列に経歴を羅列するだけでなく、
何故そうしたのか?どんなご縁だったのか?それからどんなふうにお付き合いをしたのか?どんな展開になって、誰を喜ばせたのか?
お世話になった方とのエピソードを特に子供たちには遺しておきたい。
個人情報満載ですが、今回は自分回帰を目的に社会人に成り立ての出来事の一枚の写真から回想してみます。
因みにわたしは、アルバムから自分や家族のものがたりを語る写真を40数枚選んでみました。これからの作業が楽しみです。今回は取材ロボットに話しかけてテキスト化したものを編集致しました。少し話し言葉になっています。

20代後半、休日に同級生たちとドライブ

大学を卒業してから、20代後半ぐらいまでの話です。

僕は大学を卒業してから、すぐに浜松に戻って父親の家業である印刷業を手伝いました。
最初は機械のオペレーターをして大きな印刷機を動かしましたが半年位したところで父親から「もう、印刷の機械のことは一通り勉強したので、営業を頑張って欲しい。いつかこんな体制にしたかったのだ!」と言われました。自分も「工場の中で印刷インキに塗れて仕事をするよりも、外に出てスーツを着て打ち合わせする仕事がとてもいいな」と思って、やると決めました。営業なんて自分ができるのか、自信は全然なかったけど、営業職にチャレンジすることは自分的にはとっても「ワクワク」しました。

最初に挑戦したのは、日本で一番大きな印刷会社の浜松営業所でした。ここからたくさんの仕事が発注されているようでした。
我が社にも3ヶ月に1回ぐらい決まって定期物の発注が在りましたが、父の考えは「それ以外でも仕事がある様だから是非それ以外の仕事受注するように」と言われました。そして「営業というのは、朝一番に毎日行って、担当者と話をすればいいんだよ」と教えてくれました。僕は素直な性格だから、それから言われたように毎朝そこの会社に行きました。最初のうちはドアを開けるのも緊張しました。たまたま営業所の所長さんが僕の大学の先輩でした。父親と一緒に最初にお伺いした時に「どうも息子浩は所長の後輩だ。そして自分の先輩が東海本社の管理部長だ。」と繋がりがあることを話してくれました。

父親が印象づけてくれ、発注する営業マンが 5~6人 いたと思うのですが、その方たちも所長の後輩であればと目をかけてくれましたが、「何ができるんだろう」という目で僕のことを見てくれました。そういう意味ではとてもいい最初の営業先でした。

ところが先輩の所長さんであっても発注するのは実際現場の営業の担当者でした。管理課長からは「当社も興味はあるんだけど毎日毎日来ても気の毒だから、仕事が(用が)ある時はこちらから連絡をするので毎日来なくていいから」と連絡を受けました。

そこで僕も考えました。「そうやって言われたし、じゃあしばらく様子を見ようかな」と父に相談したところ「営業っていうのは何と言われようと、毎日伺い、そして仕事をもらう。その様に言われても通うところに価値がある」と父親は言いました。僕的にはその次の日のドアを開けるのがそのドアに手をかけても開けていいのか悪いのか。父はそうやって言うけれどお客さん「来なくていい」と言っていると悩みましたが、最終的に僕は逃げずにそのドアを開けました。これが運命の扉を開きました。

そうしたら僕の先輩の所長が「前田さん、よ~」って所長の前のところに椅子を置いてくれて 僕を座らせてくれました。それで、さも担当の営業マンに聞こえるように「どういう機械設備を持っているのかね?どういう仕事が出来るんだね?」と話を聞いてくれました。

僕は得意になって「自分の会社にある機械やその機械はどういう特性があって、どういうものが得意かっていうこと」をみんなに聞こえるように大きな声で話しました。

皆さん分かってくれて「今度は何か仕事があったら声をかけてくれるかな」なんて思いました。それで次の日も嬉しくて来ましたらドア 開けるタイミングではやっぱり「今日は所長いるかな?いたら今度は何を質問してくれるかな? 」と思ってドアを開けました。想像通り所長は同じように 「前田さん よーて」言って、昨日聞いたはずなのですけど「あなたのとこにはどんな機械が入っていて、何が得意なんだっけ?」昨日同じ大きな声でまた同じ質問をされました。所長は昨日のことは忘れているみたいだから「やっぱりそれに答えなきゃいけないのかな?」と同じように一生懸命応えました。

こんなやり取りが何日間も続きました。そしたら担当の営業マンから「前田さんこういう仕事ができますか?」と言われました。まだその頃製本の技術も営業知識もない状態でしたがこの仕事は製本加工が簡単でうってつけでした。「仕事には物語があるんだよ。前田さんこの仕事は大きくなるよ!今日は少ない枚数の発注だけどこの仕事50万枚とか60万枚とかっていう発注になるかもしれないよ。対応できる?あはは!」と高笑いする広島出身ですごく仕事が出来る課長さんでした。

その頃自分は「50万枚なんてそんな仕事があるのか?あの人 面白いこと言うだけじゃないかな?」 なんて本気で思いました。
母からは「まず目の前のことを一生懸命やっていれば人は見ていてくれるから」いつも言われました。大きなメーカーの仕事でしたので、紙だけはすごく特殊なマーメイドっていう紙代が普通のコートとは違ってとっても高くて見積もってみると2000枚でも結構な金額になりました。営業マンとして売上は嬉しい。この仕事が50万枚も来たらえらいことだと紙代だけでもすごいことになってそれから2~3日たってその担当がまた大きな声で 「前田さん、僕の読み通りだよ。この仕事決まったからこれでもうちょっとしたら50万枚発注するけど君会社で出来る?見積もってみて!」なんて調子です。

その50万枚を無事に納めることができ今度は他の担当さんからも問い合わせがいくつも入りました。もう嬉しく仕事が入るとただただ一生懸命やりました。そしたら 知らない間に他の会社に出していた仕事も僕の方に売り上げが2桁上がりました。その頃 まだ個人経営でしたが、「月に1000万の売り上げできるようになったら株式会社にした方がいいよ」っていうことを担当者から言われるようになって、平成元年の4月弊社は晴れて株式会社となりました。私は専務取締役に就任して営業の責任者となりました。

小さな成功事例は、大きな仕事に繋がり自信を持てるようになり、暫く右肩上がりを続けることになりました。同じ方程式を自分なりに使い次は広告代理店、その次は地元企業、そしてグローバル企業と得意先は拡がりました。あの時、あのドアを開けなかったら、それから後の展開は無かったと思います。ただ慢心していて今思うと、気付いていれば良かったと思うこともあります。

一つ、親父の戦略が良かったです。先ず学校の繋がりもあり、口座もあり、大きな仕事もあった先であったこと。僕が仕事を頂きながら学べる環境にあったこと。更に妹が1年その会社の東海本社のデザイン部で就職していましたが、応援の為会社を退職して事務と工務を担当してくれました。母も経理を担当し会社の骨格が出来ました。

他にも、何も社会勉強をしてこなかった僕に世の中を教えてくれた方達が居ました。お客さんを紹介してくれて、「この男は、こんな想いでこの仕事をしている。僕も見ていてその姿勢が仕事に対する在り方が素晴らしいと思う」と言ってくれました。その方たちのお陰で、そうだそう在らなければならないんだと再認識したものです。

「方向さえ正しければ、信頼を築き、ただ素直に一生懸命やること。自分が何の為に生きるのか?何を天職とするのか?誰とするのか?をしっかりと考えブレずに進めばいい。 いいですか、若い時の苦労は買ってでもしてください。自分で決めて挑戦してください!失敗しても、なぜそうなったのか?自分で答えを出してください。それがきっとあなたの力になると思います。小さくても自分の成功体験は、次の壁にぶち当たっても、またこの前の様に超えることが出来ると思えるのです。その為に探求し続けてください。そして仲間を大切にしてください。一人では何も出来ません。そうすればきっと絶対に崩れない石垣の上に城を築けるでしょう。」