自分年表作成と写真整理④-8

一般社団法人自分史活用推進協議会理事 前田浩

~自分史年表が出来上がったら、次は写真整理を楽しみましょう~。

例えば「自分とは何者か」振り返ってみませんか?
ただ時系列に経歴を羅列するだけでなく、
何故そうしたのか?どんなご縁だったのか?それからどんなふうにお付き合いをしたのか?どんな展開になって、誰を喜ばせたのか?
お世話になった方とのエピソードを特に子供たちには遺しておきたい。

個人情報満載ですが、今回は僕の人生の前半の最後の出来事の一枚の写真から回想してみます。
因みにわたしは、アルバムから自分や家族のものがたりを語る写真を40数枚選んでみました。これからの作業が楽しみです。今回も取材ロボットに話しかけてテキスト化したものを編集致しました。少し話し言葉になっています。

親父の葬儀、喪主の挨拶

大学を卒業してから、21年間父親と力を合わせて家業に専念してきました。その存在はあまりに大きいものでした。だからこの時、僕にとって一つの時代が終わりました。

親父は僕が 中学 3年生だから15歳の時に自分の会社を作って独立しました。
親父が亡くなった時、僕は 44歳でしたので29年間 、僕たち家族の為に黙々と仕事をしていました。その背中を見てきたので親父の決定は我が家では絶対でした。

僕は地元公立高校の受験に失敗してしまい、私立の進学校の特進課で3年間寮に入れてもらいました。静岡の高校でしたので2週間に1回の帰省には新幹線代もかかりました。
妹も中高一貫校に通っていましたので、我が家は、学費が沢山かかったのではないかと思います。

親父は僕が知る限り、朝から晩までずっと機械を動かし続けていた。ほんとに全ての時間をかけて仕事をしていて、その仕事に対して凄く真っ直ぐな人だったと思います。
周りの人にも認められて、親父は「親父の人柄、技術」で仕事を頂いていました。
「信用してもらうとは、こういうものだ」と父から学びました。

一方、新しいものも好きでした。時代を読んで先を行く人でした。
これだって思ったら猪突猛進で進む人でした。
親父は印刷会社の工場長をしていたので、独立する時に自分の持っているスキルを
どうやってお金に変えたらいいのか?考えて、周りの人を見て最新鋭の外国製の機械を導入しました。
機械の返済をしながら自分たちの学費を稼ぐやり方で仕事を始めたようです。
だから時間をたくさんかければ、家族の為になる。これが原点だったと思います。
お父さんの中には「家族を幸せにするために仕事をする」という理由があった。

父親は 愛知県春日井市の出身でこの時は一番上のお兄さんは亡くなられていましたが、この葬儀の日は父親や母親の兄弟がみんな集まってくれた。そこで私は喪主として父の人生を振り返り力強く家族の為に生きたことを集まった方々に伝えました。

親父の遺言で「葬式の時も印刷機械を回してないといけない。会社を止めちゃいけない 。」と社員は普通通り仕事に携わっていました。

この年、親父は印刷組合の役員をしていて、取引先や同業者も沢山参列してくれました。今でも、僕が困って相談に行くと、「貴方の親父さんと約束しているよ。いつの日か息子が困って訪ねて来たら、出来る範囲で相談に乗ってくれってね!頑固で、一刻で、職人気質だったけど、優しい人だったね!」
今でも、「厳しくもあり、しかし本当は優しかった父」を感じています。