自分年表作成と写真整理④-6
~自分史年表が出来上がったら、次は写真整理を楽しみましょう~。
前回コラムにも掲載しましたが、自分史年表が出来上がったら、いよいよ写真整理ですね。先ず人生を振り返る為一つの目安として50枚選ぶとしましょう。
人の一生は誰一人同じものは有りませんので、あなたなりに調整してください。それぞれの写真に、当時のエピソードやコメントを書き出してみてください。
いつ、どなたと一緒に(ご本人がどなたか)、何をなさっているお写真(記念撮影など)か、コメントしてみてください。どういう子ども時代であった、父はしつけに厳しかった、というエピソードも貴重な情報となります。
例えば「自分とは何者か」振り返ってみませんか?
ただ時系列に経歴を羅列するだけでなく、
何故そうしたのか?どんなご縁だったのか?それからどんなふうにお付き合いをしたのか?どんな展開になって、誰を喜ばせたのか?
お世話になった方とのエピソードを遺しておきたい。
個人情報満載ですが、今回は自分回帰を目的に大学時代の出来事の一枚の写真から回想してみます。
因みにわたしは、今月にアルバムから自分や家族のものがたりを語る写真を40数枚選んでみました。これからの作業が楽しみです。
高校時代に寮生活で厳しい生活をしていた反動で、何でも自由に出来る大学生活は先ずはサークル活動を中心に行動しました。その頃、部活動とは違うサークル活動が有り、わたしはテニスの同好会に入り、気の合う仲間と多くの時間を共有しました。最初は先輩たちに色々と社会勉強をさせて頂きました。その後、同い年でとても優しい友達が出来、彼や仲間から多くを学びました。あのゆったりした素晴らしい時間を過ごせたから、その後どんなチャレンジでも挑めるようになったのではないか?と感謝しています。今思えば先輩たちから頂いたご恩を、後輩たちにもっともっとペイフォワード(恩送り)するべきだったと反省しています。
大学時代は多くのアルバイトもしました。最初の経験は駅前のデパートのエレベーターボーイでした。アルバイトの求人雑誌で選びました。友達の中では、早くから就職を意識して新聞社の原稿運びのアルバイトをしていた人もいました。当時は時間に縛られて大変だと思いましたが、今考えると先を見た戦略で良い社会経験が出来、価値ある経験だっただろうと思います。
又、サークルの先輩たちと年末のお歳暮の時季とお中元の時季は松坂屋で沢山でバイトをしました。一シーズンで20万円以上の稼ぎになり、冬のスキー合宿や夏のテニス合宿の費用になりました。今思うとそのお金の一部は、本当は自分のことばかりでなく、周りの人と一緒に楽しめることに活用出来たら良かったと後悔します。
その後家庭教師が一番効率的ということになり、学校の掲示板から応募して小学生の中学受験の家庭教師をしました。夏休みには芦ノ湖に夏季合宿に行きました。それから近くのコンビニで夜勤もしました。
学業は、本当にやりたい学びの研究室がなく、同じ課の友達に相談しました。「そのことを研究している大学の研究室に転籍出来る、そんな事例もあるよ。」と教えてくれました。
専門課程は3年からですが、勿論1年からそれなりの指針を教授に相談しなければならなかったが、先輩や友達、誰も背中を押してくれなかった。あの時真剣にあの夢を追い続けていたら、どんな人生だったのか?
しかし僕にはもう一つ気になる生き方があった。僕の両親は自営業で仕事を熱心にしていた。内容は分からなかったが、仕事に向き合う姿勢に感動していて、自分も何かに打ち込むのなら同じ仕事でも良いかな?とも思う時もあった。
当然、人生設計も考えなくてはいけなかった。「どうすれば大切な人を幸せに出来るのか?」真剣に考えた。しかし結論は出てこなかった。この頃読んだ本がスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』だ。下記の小説の最後の言葉を何度も読み返した。
「だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。」そのころは、今なら気付ける、本当に大切なものから、勝手に自分の宿命や環境のせいにして、逃げていた。何と浅はかだったか、恥ずかしい限りです。
そんな僕の迷いも感じたのか?家族は卒業前に僕の所(横浜)に1泊2日の旅行に来ることになった。
初日は中華街の聘珍樓で食事をして、山下公園前のグランドホテルに泊まった。その晩夜景の綺麗な最上階のバーで珈琲を頂いた。前記の内容の話をした。母はただ息子と娘が学校を卒業することに喜んでいた。何でも受け入れてくれる人だった。
翌日は大学の有った金沢八景経由で鎌倉に行った。写真は鶴岡八幡宮でお参りをした際です。
僕は、自分の力で父と同じ道で頑張ろうとしていた。父親が大阪の商社の紹介で、横浜本社のシステム開発1年と半蔵門営業所2年での採用を決めていた。 この旅行で、この計画で行くことを再確認した。今思うと、もう少し本音で話し合っても良かったかなあとも思う。そうしたら仕向けられたのではなく、自分で決めた道だと心から思えたはずだったであろう。