東京大空襲の証言とオスプレイ飛行から見えてきたこと
今年は戦後80年の節目。約10万人が亡くなったとされる東京大空襲の「生き地獄」を自分史にまとめた女性の「証言」と、私(櫻井)が伊豆半島で目撃した無謀なオスプレイの飛行から、心に留めて置きたいことが見えてきた。
「毅然と反戦に立ち向かう政治家の出現」に期待
白髪が目立つ高齢女性は東京都内の自宅マンションで、記憶を手繰り寄せながら、母の手を引いて必死に逃げた東京大空襲を語り出した。猛火に包まれた消防士や横たわる母親を揺り動かしながら泣く女の子の記憶がよみがえる。回を重ねた自分史インタビューに女性は「なぜ、毅然と反戦に立ち向かう政治家が現れないのでしょうか」と虚しさをにじませた。
東京大空襲前日の1945年3月9日夜、東京地方は西高東低の冬型の気圧配置が強まり、北北西の強い風が不気味なうなりを上げていた。女性はこの日の夕方、南と東の空が深紅のカーテンを垂らしたように赤く染まった「不思議な光景」を目にしたという。
日付が変わった10日午前零時過ぎ、東京の上空2000メートルにB29爆撃機約280機が飛来した。2時間半ほどの間に下町に約32万発、1665トンの焼夷弾を投下した。
その時、女性は空襲に備えて防空頭巾をかぶり、靴を履いたまま自宅で寝ていた。「ゴーツ」というB29爆撃機の轟音(ごうおん)に続き、焼夷弾の落下音が聞こえてきた。あちらこちらから真っ赤な炎が空高く舞い上がった。叫び声や救助を求める声は同心円を描くように、下町界隈に広がっていった。
女性は、母の手を引いて自宅を飛び出した。近くの防空壕に飛び込んだ。すでに、いっぱいだった。そして、近くの国民学校の体育館に逃げ込んだ。その時、胸騒ぎがした。「ここは危険だ」。体育館を飛び出した。その直後、体育館に焼夷弾が直撃した。運命を分ける「直感」だった。
絶え間なく、鼓膜を引き裂くような爆音が響いていた。火の粉の塊が着ていた衣服を焦がした。気が付くと足元には数多くの遺体が横たわっていた。目の前は「火の海」と「火の壁」。火柱の裂け目を狙い、夢中で逃げた。
「地獄の一夜」が明けると、一面焼け野原だった。母の手を引いて上野駅まで来ていた。どの道を歩いて来たかの記憶は定かでない。ようやく、「生き地獄」を生き延びることが出来たと感じた。辛い体験を語る女性の目から、何度も涙がこぼれ落ちた。
高層ビル群の夜景が美しい東京の風景を見ながら、女性はこう語った。
「私は家族を引き裂いた戦争を憎みます。日本はどんどん危険な道を歩みだしているように感じる。誰かかが反戦を訴え続けなければならない。特に、戦争を知らない若い人に戦争の悲惨さを実感してもらいたい。その一助になればと思い、自分史作りを思い立った」
平和な空間を引き裂くオスプレイの飛行に不信感
伊豆半島の温泉地・北川温泉に出掛けた時のことだ。旅館で一休みした後、波打ち際にある露天風呂に向かった。空は青く澄み渡り、相模湾に浮かぶ伊豆大島が眩しかった。
「疲労回復に効く」と言う温泉に浸かっている時だった。「バリバリバリバリ」。突然、温泉地を包む「平和な空気」を引き裂く爆音が聞こえてきた。右手から「欠陥輸送機」と報道されている「オスプレイ」が現れた。
オスプレイの飛行高度は海面スレスレに思えた。米軍機は日米地位協定で国内の航空法の適用を受けないとされているが、あまりの低空飛行に驚いた。この時、北川温泉の上空を見上げると、日本の民間旅客機が富士山よりも高く飛行していた。我が物顔で日本の上空を飛行する米軍機の無謀さに、怒りが込み上げた。
2023年11月29日、米軍横田基地所属CV22オスプレイが鹿児島県屋久島沖合に墜落、搭乗していた8人が死亡した。その直後、当時の防衛副大臣が「最後の最後までパイロットが頑張っていたので不時着だ」と言い放った。その後、防衛大臣が「米国から墜落という説明があった」として、「墜落」と言い換えた。
国民の間に「日本政府は米国の言いなりになっているのではないか」「声高に国家主権を主張するよりも、米国側と対立をなるべく避けようとしているのではないか」との不信感が広がった。
心に刻みたい翁長元知事の言葉
これからの日米関係を考える上で、沖縄県の翁長雄志元知事が貴重な言葉を残している。
「今の日本の米国に対しての従属は、日本国憲法の上に日米地位協定があって、国会の上に日米合同委員会がある。日本はアメリカに対して何も言えない状況にある」
トランプ政権の登場で、日米関係はかつてないほど大きく揺れている。翁長元知事の言葉を心に刻み、日本の立ち位置を考えたい。
2025年7月7日


