すみだ学習ガーデンで自分史講座が始まった
墨田区の生涯学習施設「すみだ学習ガーデン」での自分史講座が始まった。
4月から6月まで3ヵ月間に6回の講座の講師を務める。
「豊かな老後のために自分史を始めよう」というこの講座には11人の墨田区民の皆さんが受講する。自分史とは何か、なぜ自分史を書くのか、自分史に何をどのように書けばいいのか、自分史から何が始まるのか…、講座では自分史作文の宿題と添削を繰り返し、最終日には簡易製本で自作自分史を手にしてもらう。まさしく自分史入門と実践である。
講座に参加した皆さんは、すでに書き始めた人、構想をまとめた人、資料を集め始めた人などいろいろだが、全員が自分史への「やる気十分」の人たちである。
私は自分史のナビゲーターとして、皆さんがそれぞれの自分史に辿りつけるようアドバイスしていく役目だ。人それぞれの人生、それぞれの自分史があっていいだろう。
Aさん、80歳。中小企業の創業者だ。
戦後2,3年の間に、A少年の両親は疎開先の瀬戸内海の町で前後して病気で亡くなる。
陸軍少年兵を志願した少年は、終戦後、職業訓練養成所に入るが独立意識が旺盛で、一人で生きていく決意を固め、養成所を脱出、大阪へ出る。
農機具、大工道具、金物の販売店の店員として働きはじめる。金物を扱っているうちに鉄屑の売り買いがあることを知る。
やがて東京へ出た少年は、屑問屋の“買い子”となる。大八車に秤を店から1日100円で借り、1000円の屑買いの資金貸し与えられる。
町へ出て「くずーい、おはらい」と声を出して新聞紙、空き瓶、ぼろきれなどを買い集める。今でいう廃品回収業である。
鉄屑なら1貫目15円で買い入れ問屋に20円で買い取ってもらう。朝、店から貸与された1000円を差し引いた後の差額が儲けとなる。
多感な19歳の青年にとって「くずーい、おはらい」の毎日は、おそらく屈辱と明日への希望のないまぜの日々だったに違いない。
Aさんの自分史をここまで聴いて、私は他人の人生の傾聴の重さを感じながらも「人に歴史あり」、「人生はドラマだ」という言葉を実感していた。
Aさんは鉄屑回収業を基盤に事業を拡張、今ではリサイクル事業を確立し、その経営を子息にバトンタッチし、悠々の人生を楽しみ、自分史を書く気持ちになった。
Bさん、82歳の場合。Bさんの戦後は旅館の下足番から始まった。
浜松出身のBさんは軍隊に取られたが外地へ出ることなく終戦を迎え、縁故を頼って上京する。
東京・大森に「悟空林」という割烹旅館があった(終戦後の一時期、進駐軍の慰安施設となっていた)。Bさんはこの店の下足番の仕事にありついた。
汚れた靴を手製の靴墨できれいに磨くサービスを自発的にやった。オーナーに認められ
た。
オーナーの小林清さんはやがて「東京温泉」を始める。Bさんは「客あしらいがうまい」ということから浴客の背中を流す「三助」を命じられ、ますます小林さんの眼鏡に叶う人材として伸びていく。
小林さんが日本で最初のキャバレー「ショーボート」を銀座8丁目に開いた時、そこのボーイ長に抜擢される。こうした戦後混乱期に東京で働いたBさんは、思うところあって故郷の浜松に戻り、弁当屋、総菜屋で身を起こし、宅配惣菜の全国チェーンを立ち上げ事業の成功者となった。
Bさんの自分史を傾聴した後、書架から1冊の本を20年ぶりに取りだした。
『昭和キャバレー秘史』(1994年、河出書房新社)。
「キャバレー太郎」で知られた福富太郎さんが書いたこの本は、戦後16歳から銀座で働きはじめ「ハリウッド」チェーンの展開で成功した太郎さんの自伝でもあり、キャバレー、アルサロ風俗の変遷を丁寧に書いている。
「昭和23年には銀座8丁目外濠通り、現在のリクルートビルあたりに「ショウボート」を開店、二、三階がサロンで、やはり船に縁のある造りだった。早くもノーチップ制を採用し、注目された。」と福富さんは書いている。
自分史は、人生の記譜には違いないが、同時にその人の生きた時代と体験した世界や業界の記録である。まさに歴史は市民が作るものであることを教えてくれる。
(代表理事 前田義寛)