口下手筆不精の自分史仮説
どんなことを書こうか、書けることがない。あれを書こう、これも書こう、書きたいことが多過ぎてまとまりがつかない。なにも書き出さないうちからいろいろ考えていると、結局なにも書けない。私がそうで、まさに今がそう。しかしそんな時、書けないと書き出せば少なくとも書き始めることはできる。書き直しはあとからいくらでもできる。
知らない他人に声をかける方法。ひとりごちるといいらしい。たとえばこの時季、「暑いなあ」と言えば「そうですね」とかえってこないにしても、相手の方は少なくとも同意の苦笑になり、会話のハードルは一気に下がる。あとは野となれ山となれ。
ある程度の下地ができて話ができるようになったら、聞きたい話の周辺の自分話をすこし触れる。戦争体験の話をうかがいたければ、自分の戦争体験をちょっと言ってみるのがいいかもしれない。うかがいたいのは太平洋戦争のことであっても、口の端にのぼらせるのはガザやウクライナの話でいいかもしれない。テレビやYouTubeで見かけた、戦争にかかわる動画の話でもいいかもしれない。ここは相手の口が開くのを待つしかない。あまり話し過ぎて、相手が口を閉じてしまわない程度に。
自分の自分史を振り返れば、自分の癖、傾向はおおよそわかる。あとは日々振り返り、日々対策を考え、修正・調整していくことだ。私はあまり突き詰めると疲れてしまうのでほとんど手を抜いていると言っても過言ではないが、壊れてしまうよりはいいと自分を納得させている。
他人の自分史に向き合うのはたいへんだ。もう続けられませんと伝えなければならないようにはならないように、無理はせず、しかし根気強く取り組むしかない。好きでなければできない仕事である。その割にお金にならない稼業かもしれない。
AIがやってくれるからと、じきに人がやる仕事でなくなると言われるかもしれない。しかしその人にしか語れない、文字にできないことを掘り出し、その人やその周囲に返すのが私たちの仕事だと思うし、私にしか形にできない内容を盛り込んだ成果を世に出すのが私のするべきことだと思っている。
物価高騰のひどい当節。自分史を形にするという贅沢な作業は、ともすればより安価であることを求められてしまう。感謝とともに、お互いに納得できる金額をやり取りできればと願うのだが。
重ねて書くが、自分史は、好きでなければできない。しかも成果に見合った金額を収受できることなど、そうそうない。だが、自分史を愛していない業者に自分史制作を依頼したお客様こそ不幸で、そんなことを許してはならないと思うのだ。
今回は私の私感、仮説を申し述べました。
それでもその自分史仲間になりたいと言ってくださる皆様をお待ちしています。