自分史を味わうための読書(7)-1 「ギリヤーク尼ヶ崎という生き方」(前編)
彼の存在を初めて知ったのは10年ほど前のことだ。テレビで「ギリヤーク尼ヶ崎」という大道芸人を密着取材したドキュメンタリー番組をたまたま目にしたのがきっかけだ。
放送当時、すでに80代半ばであった彼は、腰痛とパーキンソン病の併発のため車椅子に乗り、共同生活している弟に介抱されながら暮らしていた。立つこともおぼつかない中、しかし彼は「大道芸人として活動50周年までは、どうしても続けたい」と悲壮な胸の内を語っていた。
それからしばらくして、番組のこともすっかり記憶の彼方になった頃、ネットニュースで再び「ギリヤーク尼ヶ崎」の文字を目にした。大道芸人活動50年記念公演を新宿で行うというのである。番組の放送から2年あまりが過ぎ、彼は満身創痍ながらも目標を見失ってはいなかったのである。
そして2018年10月8日、私は何故ということもないが、彼の活動50年記念公演をこの目で見ようと新宿へ向かった。ちなみに彼が路上で大道芸をはじめたのは1968年のこと。それはちょうど私が生まれた年でもあり、そうした奇遇も私にいささかの感慨を湧かせたのかもしれない。
高層ビル群に囲まれた広場はすでに大勢の人が陣取り、彼の登場を今か今かと待ち構えていた。ほどなくしてギリヤーク尼ヶ崎は、車椅子に乗って登場した。
広場は大きな歓声と拍手に包まれた。津軽三味線の奏でる音色とともに、88歳の大道芸人は立ち上がった。腰は曲がったまま伸びることはない。しかし、その眼には鋭い光が宿り、険しい表情へと変貌していた。彼の代表作は「念仏じょんがら」「じょんがら一代」など、じょんがらを土台にしたものが多い。じょんがらは青森県の民謡だが、函館出身のギリヤークには親しみ深かったのかもしれない。ちなみに「ギリヤーク」とはサハリン地方に暮らす民族の呼称だ。
演目も佳境に入ると、彼は赤フン一丁になり、水を頭からかぶるや、地面に倒れ込んで、「お母さん!」と叫ぶ。これが彼の十八番で、観衆は胸を打たれ、涙するのである。そしておひねりが飛び交い、公演は終了する。その後は、写真撮影やらサイン本の販売やらで、彼の周りにはしばらく長蛇の列ができる。渾身の舞を終えた彼の様子は、柔和な普段の表情に戻っていた。
ギリヤーク尼ヶ崎の大道芸を直接見た率直な感想は、「なんだかよく分からない」だった。しかし、「分かるかどうかではなく、響くかどうか」という意味では、間違いなく深く響く何かがあった。それはきっと彼の生き様からにじみ出るものなのだろう。
ではいったい彼の気迫はどのような人生背景からうまれたのか。次のコラムでは自分史の観点から、彼について書かれた一冊の本、『ギリヤーク尼ヶ崎という生き方』(後藤豪/草思社)をひも解いてみたいと思う。
(つづく)



