【シネマで振り返り 41】明日いのちが尽きるとしても、気高く、潔く咲く花のように……「山桜」

自分史活用アドバイザー 桑島まさき

「たそがれ清兵衛」「隠し剣 鬼の爪」「蝉しぐれ」「武士の一分」。没後も依然として愛読され続けている時代小説の名手・藤沢周平の小説はこれまで幾度も映像化されてきた。藤沢文学5作目となる本作「山桜」は、原作「時雨みち」に収録されている20ページ程の短篇「山桜」の映像化である。藤沢文学の映像化ブームの到来より先に映画化が企画され、9年という月日を待ち、2008年に劇場公開された。監督は「地下鉄(メトロ)に乗って」の篠原哲雄。

江戸末期、東北の小さな海坂藩。若くして2度の結婚歴がある野江(田中麗奈)は、不運な結婚生活にもめげず、心を通わすことのできない義父母や夫とうまくいくように懸命に耐えていた。そんなある日、叔母の墓参りの帰り、山道で淡く綺麗な花を咲かせた山桜に魅せられ見入っていた。そこで野江は手塚弥一郎(東山紀之)という涼しい目をした眉目秀麗な武士と出会う。届かぬ桜の枝をとってくれた弥一郎は、実は、かつて野江の元に縁談を申し込んだ男性だった。しかし、弥一郎の実家が母一人の家庭なので経済的に苦労するだろうと考え、会うこともなく縁談話は壊れたのだった。
その相手の男性が野江の前にいて、自分の不幸な境涯を気遣う言葉をそっとかけてくれる。
自分を見守ってくれている人がいる……。
それから、野江は山桜が導いてくれた弥一郎のことを思うたびに、心に希望が灯るのを感じるのだった。

野江の実家の両親は不幸な結婚をした娘が不憫でならないが、女が生き辛い世にあっては、「出戻り」という偏見を二度と持たれないように何とか現在の嫁ぎ先・磯村家でうまく生きて欲しいと願っていた。武士のくせに蓄財ばかりに専念する義父、イジワルで女中のように野江をこきつかう義母、権力者にまとわりついては自身の安泰ばかり考える卑屈な夫を理解できない野江は、価値観のあわない家の中で孤独だった。
海坂藩では、豪農と手を組んで農民たちを苦しめては田畑をとりあげ私腹を肥やす諏訪平右衛門(村井国夫)とそれに媚びてまとわりつく一派の悪行は藩内で知らぬ人はなかったが、誰も諏訪一派に意見したり不正を訴えたりする者はいなかった。野江の夫もその一味だった。

身分は下でも「正義」を信じる下級武士たちは、抑え切れぬ憤怒を胸に秘めていたがなす術もなく……。生命と引き換えに誰かが行動を起こさなければならない。そんな時、一人たちあがった男がいた。手塚弥一郎だ。
皆の思いを叶えるべく誰にも相談せず、弥一郎は一人で城中、刀を抜いた。無用な殺生をさけ、肝心の諏訪を一瞬にして斬る。演じる東山紀之の立ち居振る舞いや殺陣の美しさといったらない。そして、手塚は行動に責任をとり牢屋の中で裁きを待つのだった。
手塚の行動は確かに藩を動かした。悪の根源をなくした藩は今や、手塚を擁護する声も多く、処遇は江戸にいる藩主の帰還をまつことに。弥一郎の忠義を知った野江は、嫁ぎ先を見限り、たった一度きりの偶然の出会い以来、心に秘めた熱い思いを今こそ愛する男のために……。

たとえ束の間であれ、儚げながら見事な花を咲かせる桜のように、明日、生命が終わるとしても毅然とした態度を保つ下級武士の気高さ。失敗した結婚であれ愛情のない相手の〈武士の妻〉として仕え続ける野江。ままならない人生を誇り高く生き抜こうとする2人の静かな恋情を通して、日本人の精神性の在り方を提示する。
四季のはっきりした庄内の自然の美しさ、凛として部屋をかざる花瓶にいけられた山桜。江戸時代の人々の日々の営みなど、何をとっても忘れてはならない日本人の精神(こころ)がここにはしっかり描かれている。正義を貫いた男をおうように、他者によって決定される生き方ではなく、自分の意思で人生を選び取っていく野江は、ようやく帰る家をみつけたのだ。回り道の末に。

*「山桜」(2008年5月31日 日本公開)
山桜 : 作品情報 – 映画.com

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