【シネマで振り返り 8】喜びも悲しみも幾歳月……「歩いても 歩いても」

自分史活用アドバイザー 桑島まさき

2008年6月に劇場公開された是枝裕和監督作「歩いても 歩いても」は、長男の命日に集まったある家族の夏の日の情景を切り取った家庭劇だ。海のみえる町で開業医だった老いた父・恭平(原田芳雄)の元へ2人の子どもたちがそれぞれの家族を連れて集まってくる。ここから家庭劇が始まる……。

横山家は今ではあまり見られなくなった古い日本家屋で風情がある。病院と家が繋がっていて、小さいが庭があり、居間の窓はいつも開け放たれている。小津映画に描かれてきた古い日本家屋の作りだ。この家の主婦が朝から晩までしっかり使用しているキッチンにはぎっしりと調理器具が並んでいて、すぐ傍にテーブルがある。人が増えると居間の座卓でごはんを食べてきたのだろうということがわかる。そして、居間の隅っこには仏壇が置いてある。

ごはんが印象的な映画を「ごはん映画」と言う(らしい)が、本作は、この家の主婦・とし子(樹木希林)と娘が家族のために料理を作っているシーンが丁寧に大きく映し出される。

食材、調理のプロセス、合間に交わされる母と娘のたわいない会話。家族の歴史は食の歴史だ。普段、たいしたことを話し合わない家族でも、おいしい料理を食べながら「いい味にできた」「これはどこで買った」「あの店の○○は旨い」などと話しながら日々を送っている。だから、家族の話した内容や言葉を忘れても、食べた料理や味のことはいつまでも忘れないものだ。

子どもたちの到着を心待ちにしていた父は、威厳をみせるため診察室に引きこもっていたが、伴侶の得意料理であるトウモロコシのかき揚げの匂いにまけ現れる。

特別な事件など起こらないが、家族の事情や抱えてきた葛藤が、さりげない会話やシュチエーションを丁寧に積み重ねることで浮かび上がってくる。かつてこの家族の中心的存在だった長男が――両親からあと取りとして期待された――15年前に溺れる子どもを助けるために海に飛び込み溺死したという悲しい歴史が。子どもを亡くした老夫婦の深い悲しみが、原田、樹木というベテラン俳優によってしみじみと描かれる。

必死に働いて家族を養い、近所や患者からは「先生」と呼ばれてきた男は、典型的な家父長制時代のお父さんだ。しかし、いつしか家族の中心は、伴侶で子どもたちの母であるとし子だ。恭平は孫たちが「おばあちゃんの家」というのが気に入らない。

娘夫婦が同居を希望しているが気が進まない。期待していた長男を失い、家をでた次男の仕事が順調ではないことも察知している。さらに、次男の結婚相手が子連れであることやその息子とうまくいくかどうかも心配だ。

恭平は、特別変わっているわけではない。散歩中に近所の人達に声をかけられると丁寧に挨拶をし、紳士的な物言いを心がけている。人間の底意地の悪さ(それは根っからものではないのだろうが)や怖さを感じるのは、妻のとし子の方だ。

毎年、長男の命日に欠かさずやってきて仏壇に手をあわせるのは、15年前、長男に助けられて生きている今井という青年だ。家族にとってはありがたいが、子どもたちは「そろそろ兄の命日から解放してあげたら」と提案する。しかし、とし子は、「一年に一度ぐらい辛い思いをしてもらってもバチがあたらないでしょ」と、優しさと憎しみの入り交じった複雑な感情をうちに秘めつぶやく。その凄みや怖さは、圧巻だ。

それだけに、長男の墓参りをした時からついてきたと思われる紋黄蝶が家の中に入り込み、仏壇にとまると、憑かれたように蝶を捕まえようとする姿に、愛息を失った親の深い悲しみを感じ心が痛む。

家族とは、この世で最も愛すべき存在であり、それ故に衝突してしまう脆さをも含んだ厄介なものである。少し言葉が足りなかったために、悔い改めることが多いのが常だ。

同じ時間を共有した者にしか理解できない家族の歴史。生命と想い出が受け継がれ、連綿と歴史を重ねていく。家族が集まる御盆は、故人を偲び家族の絆を確認しあう時間にしたい。この時期、大事な人たちと一緒に観たい作品だ。

※「歩いても 歩いても」(2008年6月28日公開)
歩いても 歩いても : 作品情報 - 映画.com

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