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ゲストセミナー『家が仕事場!昭和の東京下町「3世代家族」ものがたり』講演録

「自分史フェスティバル2015」日本橋三越本店会場 ゲストセミナー『家が仕事場!昭和の東京下町「3世代家族」ものがたり』講演録

「自分史フェスティバル2015」の日本橋三越本店会場で、2015年9月19日に行われたゲストセミナーの講演録を、講師の久米信行さんのご好意により、一般公開いたします。

出演:久米信行(久米繊維工業株式会社 代表取締役会長)
文字起こし担当:武田悦江
(敬称略)

司会
「はじまりのカフェ」3丁目劇場の方にようこそお越しくださいました。13時になりましたので、久米信行様によります、セミナーのほうを開始させていただきます。タイトルは『家が仕事場!昭和の東京下町「3世代家族」物語』です。セミナーに先立ちまして、その他のご注意事項なんですけれども、撮影と録音はご遠慮いただいております。また協議会の記録用に、お写真撮影をさせていただくことがございます。お顔が特定できないように配慮いたしますので、ご了承いただけますよう、よろしくお願いいたします。

久米信行さまをご紹介させていただきます。久米さまは1963年生まれの東京墨田区ご出身でいらっしゃいます。慶応大学経済学部をご卒業。ゲーム会社でゲームの開発と営業を。バブル崩壊前後の證券会社でAI相続診断システムの開発と研修講師を経験されました。その後、ご実家の構造不況に陥った国産Tシャツメーカー「久米繊維工業」を3代目として継ぎ、第二創業に取り組まれました。この成果は日経インターネットアワード、公称「勇気ある経営大賞」などの受賞によって現れました。今年、久米繊維工業は、創立80周年をお迎えになります。昭和38年生まれの3代目が、職住一致の3世代家庭で見た、家族と地域の絆について語っていただきます。では久米さま、どうぞ、よろしくお願いいたします。

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久米
どうもこんにちは。久米でございます。よろしくお願いいたします。じゃあ今日は、主に私のおじいちゃんとおばあちゃんの話について、中心にお話をさせていただきます。

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最初にですね、簡単に自己紹介をさせていただきたいのですが、私は1963年、昭和38年に東京墨田区の本所で生まれました。本所ってのはどういうところかというとですね、これ、わかりますかね。やっちゃばです。今、江戸東京博物館。みなさん、行かれたと思うんですけど、国技館とか江戸博があるところは一番街です。私の小学校の友達もここで、おとうさん、おかあさんが働いてたりします。そして、都電が走ってました。私は都電を見るのが大好きで、よくおじいちゃん、おばあちゃんに連れられて、ただ都電を見るために、通りに行くんですね。

そしてこれは、今も残る「キラキラ橘商店街」があるんですけれども、私の主な買い物の場所は商店街。で両親も働いてましたので、よくお使いに行きました。買い物かごを持って。近所のマチベさんっていうところにコロッケ買いに行くことが多かったんですけれども、子どもなりにいろいろ工夫して「どういうふうに言ったらポテトフライをおまけしてもらえるかなあ」みたいな。考えながら行って。で、まあ商店街もみんな知り合いというようなところで育ったんです。

そしてあと特徴は、銭湯でございます。みなさん一戸建てで1階が仕事場、2階が住まいっていうような方が多かったんですけれども、一戸建てなのになぜかお風呂がない家が多かったんですね。ですからだいたい巨人戦が終わると、お風呂に集合。町中の人が集まってくる。いうことでありますので、ほぼ、この町は個人情報保護ゼロです。もう小さいころから大人になるまで、全員裸で付き合いしてますんでね。

ですから、なんでしょうかね。もう町の境界線がないんです。冷房もなかったですから、家は開けっ放しでしょ。そうすると、学校帰りにですね、みんな普通に、それぞれの家の前を通ると、仕事やってます。あるいは茶の間があります。昔でいうと、あのドリフの『8時だよ!全員集合』のセットってありましたでしょ。アパート輪切りになっているよね。ああいう感じの町でした。今私、明治大学で教えているんですけど、よく「先生ね、あの、人と話ししてて境界線がないね。なぜ、そんなに誰とでも馴れ馴れしいしいんですか」と聞かれるのは、たぶんそのころ、馴れ馴れしい人の間で育ったからです。

たとえば私が小さいに、退屈そうにしてて、窓から外を見てるとすると、通りかかったおじさんがだいたい私を誘拐します。「なに、ノブちゃん、退屈そうじゃないの。おじちゃんとどっか遊びに行こうか」で、そのおじさんの家へ行って、遊んで、気がつくと寝ちゃう。……と電話がかかってきて「お宅のお子さん、家で寝てるから安心してね」みたいなところであります。今だったら大変ですよね。もう警察に通報されてしまうんです。そして、なんだか知らないけれども、近所のおじさんが普通に茶の間に上がってきて、ご飯食べてる。いうことであります。

あと、おじいちゃんから聞いた話ですけれど、テレビです。もうテレビを、どの家が先に入れたか全部、うちのおじちゃんは記憶してます。なぜかというと、そこで力道山を見てたからであります。「誰々さんの家が、最初にテレビ入れてね」ということで、みんなで見ている。そういうところで私は育ちました。

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そして私はTシャツ屋でございまして、1935年創業でございます。あとで詳しくお話をさせていただきますが、まあ今でもかろうじてTシャツ屋をやっています。

こんなことを言うのも恥ずかしいんですけれども、食料の日本の自給率は、よく40%って言いますよね。こういう衣料品の自給率っていうのを、みなさんご存じですか?

50%より上だと思う方? 30%より上? 10%より上? 5%より上? それより下だと思う方? ……が正解です。大体3.5%ぐらい。

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で、私の着ているこれ、メリヤスニットについては0.8%です。だから海外の国と仲悪くなると、来年着る物がみなさんありません。まぁそんななかで、かろうじてやっているわけでありまして、そんななかでも、まぁちょっと驚くかもしれませんけど、三越では驚かないかな。1万1千円もするようなTシャツを作っております。

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で、高く感じるかもしれませんけど、100回着ても大丈夫な製品なので、1回110円です。もっと着れれば安くなれるはずです。斬新にやれば。そして私はバブル崩壊したに父の会社に戻ったんですけれども、そのときはね、もうお客さんがどんどん中国へ、海外に流れちゃったんで、インターネットをやらざるを得なかったんです。お客さんいないから。タダで、お客さんから納めていけない……っていうことをやっていくうちに、なぜか日経インターネットアワードをとらせていただいて、そのITを使う人になりました。

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そして、社員の人も「メールでお客さまとお話ししなきゃいけない」って、一番最初にやったもんですから、メールってみなさんも使われて感じたことあります? 過去に感じてると思うんですけれども、ケンカになりやすいでしょ。「そんな気持ちじゃないのに」ってなんかちょっと言葉に敏感になったり。もちろん会社でもそういうことが起きたんで「メール気をつけようね」って本出したら、なぜかアマゾンでベストセラーになりました。

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そして、あとはTシャツ。「有機栽培、無農薬で作った、環境に優しいTシャツを作ろう」ということで。安いTシャツだと、やっぱり、みなさんユニクロに行っちゃいますからね。そうじゃないTシャツを一生懸命作ると、浅葉克己さん、五味太郎さん、日比野克彦さん……「地球環境に優しくしよう」っていうと、ふだん中小企業の私たちには、なかなかお付き合いできないような先生方と、お付き合いできるようになりました。

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そして「地球環境を守ろう」というNPOを作ったんですね。「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」ってみなさん、行ったことあります? 今度ぜひにね、青山に行ってみてください。「目が見えないってどんな感じかしら」っていうのを、教えてくれるNPOなんです。真っ暗な中、歩くんですけれども、こっから先はあまり言いませんけれども。目が見えなくなると五感が豊かになります。たとえば、香りを感じるようになったりとか、あとは音を感じる、そういうところのTシャツも作らせていただいておりまして。目が見えないスタッフの方がですね、うちのTシャツを全部触って「これがいい」って言うんです。

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そして今、明治大学の先生をやってるんですけれども、「1年間、自分の好きなものをネットで行商してください、売り込んでください」ってやるんですけれども、悲しいかな、たぶんみなさん信じられないと思うんですけれど、好きなものがない子が多いんです、今の若い子は。みなさん若い、欲しいものだらけでしたよね、たぶん。「自動車欲しい」とか「テレビが欲しい」とか「洗濯機欲しい」とか。今の子って生まれたときからあるから、(欲しいものが)ないんで、私の授業、苦戦してるんです。100人受けて、最後10人しか残らない授業なんですけれども、そこで一生懸命やっているうちに『すぐやる技術』って本ができました。

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やっぱり今の子、かわいそうに情報が多すぎるから「えいやぁ」でやれないんですね。つい考え過ぎちゃって動けないので、「いいからやろう」っていうような本なんですけれども。その本を出したら、なぜか20万部を超える本になりました。

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ということで、Tシャツ屋なんですけど、気がついたらね、本をたくさん出すようになりまして、人生ってうまくいきます。みなさんも自分史をされてますから、書くことが好きな人が多いと思いますけれども、書くのが好きでもないのに、気がついたら本を書いてる。特に私、自己啓発本が嫌いでありまして、それを読んでる人も書いてる人も嫌いだったのに、そういう人になってました。人生うまくいかないものであります。

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そして、今、日本財団、NPO、世の中の社会貢献してる人を競艇のお金で応援する団体ですけれども、そこでITを使って、どうやってNPOの人が自分の活動を広めるかっていうのをお手伝いしています。今まで日本財団は、お腹がすいている人に、お魚を差し上げる仕事をしてたんですけれども、そうするとお魚を食べておしまいですからね。釣り竿と釣りの仕方をお教えすれば、自分で食べられるようになるわけでしょ。それがIT。ということで一生懸命やっているわけです。

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あとは気がついたらですね、スカイツリーなんてものが建ってしまいまして。墨田区の人、観光なんか考えたこともなかったけれども、今、観光協会の仕事してます。で、おかげさまで、先ほどの江戸博、やっちゃばの周りやら外国人の人だらけです。今年の桜のときはすごかったですね。……そういう方を「どうやっておもてなしするか」なんていうこともやってます。

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そしてTシャツ屋ですから、北斎のです。地元北斎でございますから、そういうTシャツも作って。ちょうどAPEC2010年にやったときに、なぜか日本代表になりまして。そしてプレゼントでTシャツを差し上げたら、たぶん、墨田区の人に北斎のTシャツをあげても、ほとんど喜ばれないんですけど、海外の人は、すごい喜ぶことがわかりました。そして来年(2016年)できますので、みなさん、ぜひ遊びに来てください。葛飾北斎って言ってますけど、実は墨田区出身で、ほぼ墨田区におりました。……ということで、墨田国際美術館が来年できます。

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この素敵な建物は、日本を代表する建築家で、女性で、建築のノーベル賞、フリツカー賞をとられた妹島和世さんです。金沢21世紀美術館。すごい素敵な美術館でしょう。あちらへ行かれたり、作られたルーブルのランス別館を、日本人の女性が作ったんです。

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そして、今日の夜もコンサートありますので、ぜひ、よろしかったら「すみだトリフォニーホール」に来てください。小澤征爾さんのオーケストラが、実は東京の下町墨田区でフランチャイズとして活動しておりまして、当日券だと2,000円だか3,000円だか、安く見られます。そして、このホールは小澤征爾さんが、できることでは「とにかく音をよくしたい」ということなんで、もう日本でも指折りのホールなんです。で今日は、夏で戦後70年ということでレクイエム、またシベリウスのバイオリンコンチェルトやります。よろしかったら来てください。

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というわけで、気がつくとですね、なんか地元のいろんな、お付き合いとか、学校の先生とか、元々Tシャツ屋なんですけれども、いろいろなお仕事をさせていただいてます。で、いろいろさせていただいてるお仕事の中でも、今日は初めてです。「おじいちゃんとおばあちゃんの話をしてください」って。

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そこで、これからお話をさせていただき……。まぁ一応自分史も書いてみました。あとでこの資料は、みなさんも、もらえるようね、なにか、ネットにあげていきたいです。で、今日の本題「おじいちゃんと、おばあちゃんの話」をさせていただきたいと思います。

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で、これが、あ、ちょっと顔が切れちゃった、うちのおじいちゃん。久米才市(さいじ)さんです。なかなか男前です。はい。で明治40年。1907年生まれです。そして栃木県足利市の田島という農地でありますね。で久米という名前を調べてみると、たぶん大陸系で、九州のほうからずっとあがってきたんですね。で、その中でたぶん栃木に土着したんですね。そして、集落全体を、私も何回か行きましたけど、全員「久米」でした。田舎行くと、そういうとこ、ありますでしょ。全部「久米」。びっくりしました。で、一応本家なんです。今はね、その場所自体が貧しい農村ですから、本家っていっても、すごいことではないんですけれども。そして、もし祖父が、もし長男だったら23代目になる。

でも、次男でありました。だから、お墓まいりにね、ほんとだったら、長男だったらたくさん行ったと思うんですけど、ぼくは何度かしか行った思い出がありません。でも今も思い出すんですけれども、23個以上並んでるわけですよ、山の斜面に。そう、一代ごとにお墓があります。めずらしいですね、今どき。で、所々、丸いお墓があったから「何ですか」って聞いたら「お坊さんの墓」だそうであります。でも、まぁおじいちゃんは分家しましたので私は3代目です。

で、農家の次男は丁稚奉公に行ったんです。ということでありまして。そんなに豊かではなかったから、尋常小学校出たときに、12歳、13歳で上京する。たった一人で。

そして、墨田区本所にやってまいりまして。なぜかというと、東京本所は町工場がたくさんあります。当時はまだ繊維。戦前は繊維がね、やっぱり、日本の代表的な業種でございましたから、そのメリヤス工場に丁稚奉公に行ったんです。これ聞いただけでも私、びっくりしますよね。中学校に入る年にもう、独立して、全然知らないところに行って。全然知らない家に入って、働かなきゃいけないっていうことです。すごいなぁって思います。

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でも、おじいちゃんがすごいのはね、それだけじゃないんですよね。関東大震災です。で、これ、ちょっとね、どぎつい写真なので、あまり、凝視できないものですけれども、被服廠(ひふくしょう)跡。東京都慰霊堂公園、横網町公園でございます。僕たち、ちっちゃい、野球した場所です。墨田区はね、遊び場があまりないんで、露地で遊ぶか、被服廠に行ったんですね。そこが往時の写真です。

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そして、もうお骨。これ全部お骨なんです。お骨を全部燃やして、無縁仏を燃やして、半月ぐらい燃えてたんですってね。そして今は、慰霊塔公園になっております。そしておじいちゃんは当然ながら、これは関東大震災の写真集。ネットで調べることができます。大正12年。おじいちゃんが16歳。まぁ奉公4年目ですね。ようやく仕事がたぶんできるようになったでございましょう。で、住み込み先の奉公ですよね。当然ながら。ずっと住み込みで。そして2階にいたそうですけれども、突然1階になったそうです。がくんと落ちたんです。もし1階にいたら、私はここにいませんでした。

そして、そのときご主人とか先輩は、兄弟子は、いなかった。で、いたのは誰かっていうと、うちのおじいちゃんと、そこのご主人と、留守番だったんです。で、その奉公先の子ども。やっぱり子どもでもそこにいたら危ないってわかるわけですね。火の手もあがるし。だから16歳の子が、その10にもならない子を連れて、歩き回るんです。すごいですよね。修羅場中の修羅場です。で「本所被服廠跡に逃げろ」っていうのが、当時の合い言葉だったそうです。広かったんです。被服廠ってのは、陸軍の軍服作ってた所だったんで、その跡地ですから結構広かったんですね。ところが、みなさんニュースなどでご存じかもしれませんけど、そこは、もう大八車持った人とか、みんなそこに逃げ込んだんです。で、もうそうなるとですね。子どもを大切にしようとか、お年寄りを大切にしようとか、じゃないそうですよ。修羅の世界でありまして。「どけどけー、邪魔だ-」って言われたんで「とてもここには入れない」っていうことで、祖父は入るのは断念しました。もし入ってたら私は、ここにいません。入った人は皆、故人ですね。で、中に入れなかったからこそ、おじいちゃんは生き残ったのでありまして。

ですから当然ながら、この東京都慰霊公園では、9月1日に毎年慰霊祭が行われます。そこには必ずおじいちゃんが、僕を連れて行ったりします。ちょっと、なかなかね、やっぱり、こういう、ただ「慰霊しろ」って言っても、子どもはついて行かないでしょ。それはね、下町の知恵なのか、江戸の知恵なのかわかりませんけれども、僕はね、9月1日、楽しみにしてたんです。なぜかっていうと、縁日があるからです。慰霊塔公園、今もそうですけれども、あの周りは全部縁日です。だからそのとき、おじいちゃんたち、おばあちゃんについて行くと、あんず飴買ってくれたりね、綿あめ買ってくれるかもしれないんです。それがとても楽しみでございました。

で、まぁ、弟たち乳母車に乗せて押しながらいくわけです。でも、この中に入ると……。みなさん、行かれたことある人、どのぐらいいらっしゃいます、慰霊塔公園。実は中に、すごい写真が、この絵がありますよね。まぁ子どもが見たらね、夢に出そうな絵しかないんですよ。さっきのしゃれこうべの話とか。突然竜巻が起こったとか。だから、今考えると、そういう防災教育とか、あとは「この人たちがいるから、今私たちも生きられるんだよ」っていうことを、ちっちゃいからすり込まれたわけですよね。で、今も覚えているのは、この中に入ると、すごくお線香の匂いがして、その絵を見て恐いけれども、お祈りしたあとに、あんず飴を買ってもらうと。いうことで、まぁ、私は育てられたわけなんですね。見習いたいことであります。

そして、あと、ちなみにもうすぐね、東京でまた地震が起きるっていう話がありますから。「いつ起きてもおかしくない」って消防庁の人に言われてるんですよ。消防の委員のときに。「いつ起きてもおかしくないですよ」って言われてます。大事なんですよね。で、ぼくもね、もう亡くなったんですけれども、北斎の伝統でしょうかね。錦屋の刷り師のおじいちゃんと、なにかで一緒になったときに教えてもらったんです。「おまえな、地震とか火事が起きたら、消防署の人とか、警察の人とか、先生の言うこと、信じちゃダメだぞ」って。うふふふふ。すみません。消防署の話をしておきながら、関係者の人が言ったって。で、その方は二葉小学校、僕の母校に「逃げろ」って言われてたので、逃げようとしたけど、なぜか入らなかった。逃げ込んだ友達とか、近所の人、みんな亡くなった。だから大きなことがあったときに、デマとかに流されないようにね。「自分で判断してね。風上に逃げるとかしなさいよ」って僕に教えてくれた。だから私はね、おじいちゃんのその、被服廠に入らなかった話と、この刷り師のおじいちゃんの話がいつも頭に残ってます。「みんな、あっち行け」って言ったら、逆に行こうと思ってます。まぁそれでも亡くなったらごめんなさい。失敗談です。

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そして、次ですね。おばあちゃん。久米トヨ、トヨ子。なんですけれども、あの。みなさんだったらトヨとトヨ子、どっちがいいですか? トヨのほうがいいと思う人? トヨ子のほうがいいと思う人?

それで、僕もね「おばあちゃん、どっちが本当なんだろう?」ってよくわかんない。お位牌には「トヨ」って書いてあるんです。自分ではね「トヨ子」ってよんでました。「トヨ」っていう名前はたぶん嫌だったんじゃないかなと思うんですよね。そういうことであります。

大正4年、1915年生まれです。そして静岡県御殿場になりますね。だから当時は、外国人の避暑地みたいなところでございまして、御殿場ってのはね、何もない、東京に比べて寂しい土地です。だから今は、当然ながらね、アウトレットがあるにぎやかな所でありますけれども、まぁ、農業を中心にやってました。そしておばあちゃんのお父さんは、国鉄御殿場駅の助役。当時は地方で国鉄の助役っていうと偉かったそうです。天下の国鉄だったそうです。で、同時に田んぼもあって農業もしてます。で、おばあちゃんは長女だったんですね。で、まあ、優しく育てられたけれども、それでもやっぱり、奉公には行ったそうです。学校を出てからね。ま、半分花嫁修業もあるのかもしれませんがね。

で、実はおじいちゃんのお墓まいりにはほとんど行かなかったんですけど、おばあちゃんのお墓まいりは、しょっちゅう行ってました。しょっちゅうです。おばあちゃんのほうがたぶん強かったんでしょうね。夏のお墓まいりの風景。田んぼの中にあるお墓の風景は、今でもよく覚えています。

それどころか、孫なんですけれども、夏休みに1か月ぐらい、ちっちゃい滞在したことがあります。好きだったんですね、やっぱり、ゴチャゴチャした本所に住んでましたから。で、一番忘れられなかったのが、ニワトリ飼ってたんです。でもそれ、養鶏ではなくて、自分ちで食べる用に。それで、朝、子どもって玉子焼き好きでしょ。そしてね、子ども用に甘い卵焼きを作ってくれるわけですよ。その玉子焼きってね、家よりも甘いヤツ。はい。特別にゲスト用に作るやつ。だからうれしくって。としても朝どりですから、うれしいんです。ものすごく。で、「それ、とってきてごらん」って、ニワトリ用にちょっと突っつかれながら、玉子焼きして作ってもらうっていうのが、忘れられない思い出なんですね。ま、それもおばあちゃんのおかげであります。

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そして、ちょっとね、結婚したの写真があんまりなかったんで、そのあとの写真でございますけれども、この二人が出会ったっていうのが、どういうときかっていうと、昭和10年ってのがあって、エポックがありまして、結婚した年、おじいちゃんが、うちの父親が生まれた年、久米繊維が創業した年です。ほぼ重なった時期であったわけであります。お見合い結婚です。当然ながらですね。そうじゃなきゃ接点ありませんよね。静岡御殿場の人が、本所の。そしてなぜ結婚できたかっていうと、奉公を終えて独立したからであります。だから、まぁ、いい制度ではありましてね。10年くらいやると、みんな独立できたんですね。景気もよかったこともあるから。丁稚やさんと、のれん分けをさせてくれたわけです。

で、祖父が28歳。といってもまぁ12歳、13歳で出てきたことを考えれば10年ぐらい奉公してるわけですよね。で、おばあちゃんは20歳。で、墨田区石原町。ちょうど両国と錦糸町の間ぐらいのところであります。そこで開業いたしました。私もそこで生まれました。で自宅兼、仕事場兼、社宅であります。住み込みがいたからです。自分も住み込みだったけど、独立したら住み込みをまた雇うんです。だから私が生まれたときの家も覚えてますけれども、まぁ普通の一戸建てです。ま、20坪、30坪。ちっちゃな家です。入り口に入ってガラガラガラって開けると、土間と三和土(たたき)があって。昔の家ですから金魚飼ってます。ステイタスだったんですね。そして反物が積んであったり、荷物が積んであったりします、正面に。そして父親が仕事してるんです。昔はミシンもあったんだそうです。私が生まれた年にはもう、工場ができてたので、ミシンはありませんでしたね。

そして入って右側に応接間がくるんです。今家作っても、応接間って作らないでしょ。昔は応接間作りたかったらしいんです。でソファーを置いて、テーブルがあって。その上に大理石で作った灰皿とライターがあるみたいなの、あったでしょ? でサイドボードがあって、初めて行った海外旅行で買ったナポレオンが張り物のように立ってる。でキジか、北海道で買ったクマが。浮き彫りがあったり。ありますよね? それです、うちは。応接間。典型的な応接間。で、クーラーが応接間が入ったの覚えてます。そして、応接間右で、左側、ガラガラって開けると掘りごたつになってて。もう当時、ぼくが物心ついたときにはおじいちゃんも、おばあちゃんも引退してましたから、コタツに座って水戸黄門見ていた。仕事場と水戸黄門と応接間。そして上にあがると、まぁ、神仏があったんですよね。ま、ある意味、コンパクトですね。いい暮らしであります。ただしお風呂はない。最後になってお風呂増築しましたけど、お風呂はなかったんです。それで、その応接間の隣の個室が、まぁ、例外的にあったんですけど、そこは、住み込みの人が。私のときには、住み込みの人が一人だけいました。その人の部屋でした。

で、祖母のときは、祖母が嫁いだときは、もっとね、住み込み職人と、あとお手伝いさんがいたんですね。うちのおばあちゃんも、ミシンは踏んだけれども、家事はほとんどしなかったそうです。当時はみんな、ちっちゃい子が田舎からやってきてね、やってました。で、そういう世界は、まったく御殿場の田舎の国鉄の娘にはない世界なんです。わかんないんです。新婚生活を夢見てきたら、いきなりね、がちゃがちゃした毎日ってことになっちゃいました。

そしてね、本所に住み、おばあちゃんがね、おじいちゃんに、ほんとは聞きたかったけど聞けなくてね。「みなさん、いつになったら寝るんですか」って言ったそうです。10時ぐらいになっても、まだみんな仕事やってるからね。「いつ、終わるんだろう」と思ったそうです。そしたら「おかみさん、まだ宵の口だよ」って言われたそうです。とんでもないところへ嫁いだと。今は、ほとんどね、サラリーマンだらけでしょ。日本のほとんどはそうですけれども、もう全然違いますよね。もう下町の地区は、隣の家との境界もないけど、家ん中にも境界がない感じですね。食事どころかもう、ほんとに一体化してます。そうです。職人さんたちとの初日の会話はそれだったそうです。とにかく一番印象的だったのは「まだ宵の口だろう」って。大変ですね。

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そして、第二次世界大戦です。1935年創業ですから、たった10年です。で、途中で開戦しちゃいますから、どれだけ大変だってことですよね。で、これもまた、被服廠の写真。あの被服廠の横、震災記念堂の横に博物館があるんです。そこにこういう写真があるんです。38,000人亡くなったとか言われてますよね。これもやっぱりしゃれこうべです。

ちなみに私たちの今の会社は、錦糸町にあるんですよね。そこに錦糸公園というきれいなお庭がありますけど、そこも15,000人。無縁仏が埋められてます。今、お子さんたち、楽しく遊んでますよね。で3月10日にも慰霊塔で慰霊祭が行われてます。宮様とか首相とかが来て慰霊祭が行われてます。原爆記念のね、行事はすごい放送されます。こっちはあんまり放送されないんです。で、昭和20年。祖父38歳、祖母30歳ですよね。まぁ、あぶらが乗り切ったところで、もう戦争に巻き込まれちゃったんです。人生の一番いいとこで。で、祖父は徴兵されました。で、幸か不幸か外地には行かなかったんですけれども、近衛騎兵だったんですね。だから馬に乗った写真、ちょっとかっこいいのね、あったはずなんですけど、どこかいっちゃったんで探せませんでした。

そして、祖母は留守番ですよね。子どもは当時3人いたんです。ま、うちのじいちゃんとの子です。そして自宅と、まぁ小僧さんと、ほそぼそとやっていたようであります。で、差し入れの話で、僕はね、おじいちゃん、おばあちゃんの話で、一番感動した話の一つなんですけれども、ある日、もう、おいしいものが全部食べられなくなったときに、ぼた餅、どっかから手にいれたらしいんですよ、おばあちゃん。そのまま食べればいいのに、今の年だったら食べちゃうかもしれませんけれども、「おじいちゃんに食べさせたい」と思ったんでしょうね。それで、かなり離れた、東京のはずれにある、おじいちゃんがいる騎兵の宿舎に持ってったらしいんです。でも、おじいちゃんは留守だった。なぜ留守だったかっていうと、それが、食べものが何だったか、ぼく忘れちゃったんですけど、おじいちゃんも何か食べものをゲットしてね、奥さんと子どもに食べさせたくてね、入れ違いになっちゃったそうです。だからオー・ヘンリーの「賢者の贈り物」みたいです。髪飾りと髪を交換したみたいなね。ま、そういうロマンチックなことがきっと、まぁうちでも、こういうねぇガチャガチャした下町でもあったぐらいだから「いろいろ、あったんだろうなぁ」と思います。

そして、当然ながら空襲がひどくなると、とてもいられないわけですよね。それで御殿場に疎開しました。で、うちの父に言わせると、すごく嫌な思い出です。当然いじめられるわけですよ。ほんとは都会じゃないけど「都会から来た」って、いじめられるわけですよ。東京の田舎だというのに。「とても嫌だった」そうです。そして当然ながら3月10日にすべて燃えるわけです。もう焼け野原です。もう上野から、全部見えたっていうぐらい焼けちゃったんです。そして終戦して、まぁおじいちゃんは幸い生き残ったんですけれども、当然焼け野原ですから、いる場所がない。で、次男だから栃木に帰るわけにはいかない。そこでおばあちゃんの疎開先に一緒に行きました。当然ながら呆然自失だったそうです。そりゃそうですよね。せっかく独立して、会社作って家庭ができて「これから」ってときに全部焼け野原ですから。呆然自失だったそうです。

でも一念発起して、東京に出てきてくれたんで、私がいるわけですよ。そうじゃなかったら、ここに私いませんですよね。そして、まぁ祖父はそんなにね、もう呆然としてたけど、やっぱりおばあちゃんが背中を押したようですし、あとは、あの、おばあちゃんの父親が偉かったそうです。国鉄の助役さんが。「ここにいても仕方がない。お金出してやるから」だか「出してやる」だかはわかんないけれども「応援するから、もう一度やれ」って言われていたそうです。そして、これもね、あとでおじいちゃんとか、おばあちゃんに聞いて感動したんですけれども、大学のときに都市計画の論文を書いたときに教わったんですよね。

震災で焼け野原になり、戦争で、空襲で焼け野原になってるでしょ。大変じゃないですか。でもね、そうすると活気が出たっていうんですよ。これはあんまり聞かない話ですけれども、結局焼け野原になって、そこに戻ってこようってのは、すごいガッツが必要でしょ。本当の地域愛と、やる気がないと帰ってこれないですよね、もう。田舎のほうがいい。だからガッツがある人だけが帰ってくる。半分ガツガツ。であと外からね、住んでなかった人が入ってくるわけですけど、焼け野原に来るぐらいだから「焼け野原=チャンス」と思わなければいけないそうですよね。実は神戸でも、そんな話聞きました。神戸は焼け野原になったところで結構ベンチャー、ヒーローが出てきたっていう話もあるそうでして。で、今、墨田区は、ようやくちょっと元気が出てきてるんですけれども、ずーっとね、安穏としているんで、だんだん元気がね、なくなったところもある。でも今、不景気と、あとスカイツリーができたりしてるんで、若い人が入ってきて、ちょっと活気が出てきました。でも意外でありましたね。そういう「焼け野原」のおかげで墨田区が発展しました。

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そして、うちのおじいちゃん、おばあちゃんが、その後どうなったかというとですね、今の言葉で言うと早期リターンです。早期セミリタイア。で初孫、私が生まれたわけです。江ノ島かな? わかんない、どこだかわかんないんですけれども。私のちっちゃい。まだかわいかったです。それで、うちの父親がね、優秀だったんです。ま、たぶん戦中派だからね、ガッツがあったのかもしれません。もう自分の青春、全部戦争にもってかれちゃったから。で映画少年だったので、マーロン・ブランド、ジェームズ・ディーンを見て「Tシャツだ!」って。メリヤス肌着屋からTシャツ屋に変わって、父曰くですけど「日本で一番最初にTシャツを作った」んです。そのあとBANジャケットの「石津謙介さん、やっと作ったなぁ」っていう話をしていました。

で、このおじいちゃんが偉いのはね、自分より優秀な息子が生まれると、たいていジャマするんですよね。「これはかなわん」と思って早く譲っちゃったんです。で私もね、今も会長で、弟に譲って「楽でいいでしょう」って言われるけどね、寂しいもんですよ、やっぱり。社長のほうが、そりゃあ楽しいもんです。でも、まぁ、いいですよ。

で、おじいちゃんは何をやっているかっていうと、まあ今の言葉で言う、社会貢献ですね。メリヤスの組合、ちょうど、まだ景気がいいときですから「東北に工場を作ろう」と。工場を作るためには、東北の子どもたちに教えなきゃいけないとかいうことで、そういう仕事をしていました。で、縁てのは不思議なもんで、ちょうど、昨日と一昨日、私、文部科学省と文化服装学院の仕事で、米沢と福島に行って、そういうものづくりができる子をもう一度増やそうってことで、ちょっと集まった。なんか今日ね、おじいちゃんの話するんだったなぁと思ったりするんです。そういうことを一生懸命やってます。で、おばあちゃんは町会と習字と民謡で暮らしてます。まぁ、その前にね、いろいろ働いたり苦労しましたからね。そして、それだけではなくて当然ながら、そのは住み込み。だから僕は住み込みのお姉さんに、おんぶしてもらった思い出はあります。おじいちゃん、おばあちゃんにはその程度です。

そして、毎日銭湯に行ってたんですね。で毎日銭湯に通っていると、おじいちゃん、おばあちゃんは、まあ下町ですから、町会やら、お祭りやら、全員知り合いですから。おじいちゃん、おばあちゃんが、かすがいになって「これ、うちの孫だよ」ってだんだん顔が知れていくわけです。学校、ふつう学校ルートだけだと、おじいちゃん、おばあちゃんネットワークはできないでしょ。銭湯でできたんですよね。

そして、ディズニーランドがありませんから、私たちは花屋敷であります。あと、東京タワーですよ、『3丁目の夕日』だから。おじいちゃんに東京タワー連れてってもらったこと、やっぱり忘れられないし、羽田空港とか好きでした。ねぇ。今見たら、ただ飛行機が飛んでるだけですけれども、子どもの、楽しかったんですね。

そして、日本橋三越です。特別なときに来て、お昼をお好み大食堂、今は、なんかかっこいい名前に変わってしまいました、横文字の。お好み大食堂に行って、ウエハースがささったアイスクリームを食べるのが好きでした。と、お子様ランチ。「なんでハイカラなものがあるんだろう」と思いました。正直言って、すみません、デパートの人がいたら。デパート好きじゃないんですよ、子どもは。こんな退屈なところはないんですけれども、さっきの慰霊塔じゃないけれども、お子様ランチ食べさせてくれれば。あと、ときどきおもちゃを買ってもらえるところでありました。

あ、そうだ、おばあちゃんの習字のとこでぼく、肝心なこと言うの忘れたんです。これ、おばあちゃんの字なんです。ざいもくじ。これ、掛け軸にもまだ、床の間に残ってるんですけど、そのうちの一つを、素敵な字だから印刷して、年に1回、四国四万十川の砂浜にTシャツが1,000枚並ぶイベントがあって一応応援してんですけど、そこに昔出したんだそうです。こういうときじゃないと、なかなか着る機会がないと思って出しました。おばあちゃんとおじいちゃん、ここにいるよって。

そして、丹沢のね、大山阿夫利神社。みなさんも行かれるかもしれません。そういうところって、ほら、お年寄りが行くところだけれど、孫も楽しんでいるんですよ、実は。ケーブルカー乗れるとかね。そういうのはよく覚えてます。そして、おじいちゃん、おばあちゃんが大好きな、いなくなると泣いてったんですけれども、たとえば町会に行かなきゃいけないときに「なんでおじいちゃん、おばあちゃん行くの?」「町会チクチク」って痛いところに行くんだよ」と言われたんで、「町会って痛いもんだな」って思ってました。だまされていたわけですけれども、当時は気がつかなかったんです。「町会チクチクに行くからね」って。「おじいちゃん、おばあちゃん、ちょっといないよ」って言われました。

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そして自転車ですね。自転車。で自転車で僕は保育園に行ってたんです。幼稚園だとね、時間、短いから、みんな働いているからね。保育園だったんです。お相撲さんやってた人が作った「みどり保育園」に行ってたんですけれども。で、そこにね、送り迎えですよ。ちょっと離れた自転車で。それがだいたい、おじいちゃんか、おばあちゃんでした。みどり保育園へ自転車通学です。祖父母が、ほんとにね。終わってから公園、学校の中の園内、保育園の園庭で遊んでるときに、誰か迎えに来て、一人ずつ連れてかれると、幼児ってのはね、寂しいもんなんですよ。でけっこうね、うちはね、遅いんですよね、いつも。だから逆におじいちゃん、おばあちゃんが来てくれるとすごくうれしかったことを覚えてます。

そう、そしてね、下町ってのはね、いいもんでありますよ。ガード下が、総武線のガード下に抜けたところに保育園があったんですけれども、そこにね、いつも、ガード下にこじきさんがいました。ね、今どきの人はね、そういう人をね、撤去しろとかね、すぐ、区役所に電話するけれども、昔の人はそういうことは言いません。その人はそこにいてもいいし。あとね、みどり町だと「みどり町のパパ」と呼ばれている人がいて、40すぎてたかもしれないけど、幼稚園の帽子とランドセルしょってて、歩いてる人がいたんですよ、鼻たらして。で、もちろん幼稚園児はバカにしますけれども、大人は偉くてね、そういうことを言わないんです。だから、やっぱり現代人の、なんか心の闇っていうのはね、自分と違うとか、汚いものを全部排除するけれども、そのはカオスでよかったんですね。

で七五三で、ぼくが5歳のときに、いつもと違うおめかしをして、そこ通ったら、その、こじきさんに呼び止められたんです。ぼくはね、その記憶がないので、おじいちゃん、おばあちゃんから聞いたんですけど「ぼっちゃん、いつもね、挨拶してくれるね。今日は七五三だね、おめでとう」って言って、なんか5円玉かなんか、くれたらしいんです。

そのね、こじきさん、まぁ神様みたいでしょ。ほんとは神様か仏様だったと思うんですけど。それも偉いけど、それをちゃんと「もらっておきなさい」っていうおじいちゃん、おばあちゃんも偉いと思いません? 偉いですよね。「そんな汚い物もらっちゃダメ」ってイマドキのお母さんなら言うでしょ。「消毒しなさい」とか言いそうでしょ。それはね、すごくいい話であります。

そして、保育園で習った歌をね、帰りに自転車乗せてもらいながら僕は歌ったそうです。で、その歌を聴くのが、すごい、おじいちゃんも、おばあちゃんも大好きだったんだそうです。で、トマトの歌ってのは、もう誰の歌かも知れないけど「麦わら帽子にトマトを入れて~♪」って知ってます? あんまり有名じゃない歌でしょう。その歌を、ぼくはずっと歌ってたらしいです。それが忘れられないんです。まあ、そういうものなのかなぁ。て記憶してます。で、おじいちゃんの好きな歌も知ってます。「星影のワルツ」です。もう、歌っていうと「星影のワルツ」しかないそうです。そしておばあちゃんは、民謡をやってましたから、沢内甚句(さわうちしんこ)をいつも歌ってました。それ、子どものにね、よく聞いていたんですね。だから、ちっちゃい聞いているものってのは、よく覚えてますね。で、うちの子どもを、まぁうちの父親、まぁおじいちゃんが、いろいろ連れていったりして、覚えてるんですけれども、一番、うちの子どもが覚えているのは、うちの父親、もう亡くなったんですけど、おじいちゃんの歌で覚えているのは、車ん中で聞いてた、綾小路きみまろだって言ってました。「あれから40年」すごい覚えてる。ちっちゃいにね、おじいちゃん、おばあちゃんと過ごしたときの、歌とか文句とか大切ですね。

そして、国際劇場がまだあったんです。今、浅草ビューホテルになっているところですかね。そこにSKB。倍賞さんとか、SKBがあって、春の踊り、夏の踊りって、まぁ要はレビューショーをやってたんです。知ってます? ご存じですか。ねぇ。きれいだったですよね。まぁ、子どもだからさっぱりよくわからないんですけど、おじいちゃん、おばあちゃんが、いつも連れて行ってくれて。なんか、上のほうのね、あんまりよくない席で、いつも、それをよく見てました。国際劇場。まぁ、行くとたぶんね、花屋敷連れて行ってくれたり、なんか食べさせてくれたから、ついて行ったんだと思います。

そして、まぁ、うちのおじいちゃん、明治出身、近衛騎兵、職人ですから、原則かたい人と思われていたんですけれども、おじいちゃんが亡くなったとき、町会の人がカセットテープくれたんです。おじいちゃんがね、機嫌良く笑っているときに歌ったっていう歌ですので「何だろう」って、みんな聞いたら春歌でありまして。春歌をね、楽しそうに、ちょっとエッチなんですよ。それを楽しそうに、みんなで歌っている声があったんで「それは、それでいいことだなぁ」と思ったんです。ずうっと聖人君子みたいなおじいちゃんのイメージがあってですね、なんか「とうちゃん、すごく真面目だったんだけど、時にはそんなこともあったのかなぁ」なんていう気があるんで、逆に心がほっこりしました。

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そして、やっぱり祖父母にね、すごく影響与えられたなぁと思うのは、宗教観ですね。宗教ってっても特定の宗教やっていたわけじゃなくて、いわゆる「日本教」です。うちのおじいちゃん、きょうも来るとき、母親と一緒に来る前に、うち、浅草にお墓があるんですけれども、そこでちゃんと、ねぇ、お中日の前にお掃除して、お詣りして帰りました。

で、何が大切かっていったら、商売人は必ず神棚があります。来年生きてるかどうかわからないから、必ず神様に祈ります。農業・漁業やっている人も神様に祈りますけれど、中小企業の経営者は、必ず神様に祈りますね。そして、あとは仏壇があったんです。おじいちゃん、おばあちゃんが初代だから、ふつう仏壇ないでしょ。でも、ちっちゃいね、自分の子どもで、やっぱり亡くなった方がいたんです。それで、お位牌があったから、仏壇があったんです。今神棚とね、仏壇がない家が多いでしょ。神棚、仏壇があるのは幸せだと思いました。

そして、あとは下町ですから、とにかくお祭りですよね。で、お祭りは盛り上がります。なぜかっていうと、来年できるかどうか、わからないと思って、みんな一生懸命やるんです。何度も焼けたこともあるし、商売もね、不景気があったりするんです。で、御輿とだし入りで、ぼくたちも大好きだったんです。そして、地元の氏神さまが牛嶋神社でございます。隅田公園にあるんですね。一般の神社じゃないんです。で、僕はボーイスカウトで、そこでしごかれたんですね。そのしごかれたボーイスカウトの大委員長、隊長さんのお父さんなんです。おじいちゃんだった人が僕の名前をつけてくれたんです。

で、名前つけたっていっても、うちの父親が、字画とか見て三つぐらい選んで「この中でどれがいいですかね」とか言って、地元の氏神様の宮司さまに名前つけてもらうのがけっこう普通でした。そして今の、牛嶋神社の宮司は僕のボーイスカウトの後輩なので、だんだん年とるとありがたみがなくなるなって思ってるんですけれども。

そして、あとは地元の人は「講」が好きなんです、下町の人。三峯講とか、身延講とかね、大山講。半分レジャーですね。富士講はなかったんですけれども。この講に連れてってもらったりが楽しかったです。そして、それを、おじいさんたち、おばあさんたちがいっぱいのところに、ちっちゃい子がいると、もてるでしょ。ただでさえ、おじいちゃん、おばあちゃんが褒めてくれるのに、その人たちが何百人もいるわけだから、こんなにいい気持ちはないんですよ。そして一生懸命、大山と、イイデサン、みなさんご存じのように、石段がいっぱいありますよね。それに「あ、ケーブルカー乗らないで登ったの? えらいねぇ」って言われると、なんかオリンピックで金メダルとったぐらいに褒められるんです。そりゃあうれしかったですね。ま、そういうことやっているうちに、神社に行くのが好きになったんです。で、子ども心に神社ってパワースポットだったんです。気持ちいいじゃないですか。

そして、おじいちゃん、おばあちゃんは、84箇所巡り2回やったかな。僕、まだやってないんですけど「いつかやりたい」って気持ちがあるのは、やっぱりおじいちゃん、おばあちゃんがやってたからです。スタンプラリーみたいなのを集めてるから。そして、84箇所巡りやってから、おじいちゃん、おばあちゃん、お経をあげられるようになったんです。般若心経。だから月に1回お坊さんがきてたけれども、自分であげるおじいちゃん、おばあちゃんを見てるから「やらなきゃいけない」っていうんで。うちの両親はあげられないんですけど、僕は般若心経をあげられます。般若心経はね、すごくいいですね。もう毎日仏壇であげています。気持ちいい。だから一代飛んだんですけど、私が一応、それを受け継ぎました。

そして八丁堀の先生の話をよくしてくれたんですけれども。要は商売人だから、目に見えないものを大切にして。八丁堀の先生は霊能力者です。霊能力者。要はね、経営って最後、判断できないときにね、そういう訴えをかける先生って、いっぱいいたようです、昔。で、でも本当の霊能力者らしくて、うちの工場は千葉の今、千葉ニュータウンの近く、印西にあるんですけれども、その土地を見つけるときも、八丁堀の先生の助言があったらしいです。で、最初おじいちゃんが成田山にお詣り、行ったときに「ちょっといい土地があったんで、あんなとこ、どうだろうか」って八丁堀の先生に言ったんです。「そこはよくない。もう少しするとね、こういうところが出てくるから、そこにしなさい」って言われたら、ちょっとしたら、そういう場所が見つかったらしいです。土地が出てきた。そこに今、うちの工場ができた。おかげさまで繁盛してます。

で、もう一つは、八丁堀の先生のいいのは、おばあちゃんかな、体調が悪いときに「どうしても体調が悪いです」「それはね、あなたのふるさとのね、御殿場でいつも行ってた神社があるでしょう。そこの鳥居を見てご覧なさい」って言われたんですね。で、そこの山神社ってところ、陣馬の山神社に行ったときに、鳥居を見たら、ちょっとゆがんでたらしいんです。ちょっと奉納して直したら、よくなったそうです。信じるかどうかは別としてね、そういう話をおじいちゃんから、おばあちゃんから聞くと、子どもはおっかながりだから、目に見えないものに手を合わせる気持ちは出ますよね。まぁ、それは御殿場山の神様の話であります。

そして、おじいちゃん、最後は地元、もともと牛嶋さんだったんですけど、工場を、本社を移してから、本所天祖神社さまが、うちの氏神様なんですけど、そこの氏子総代になりました。すごく誇らしかったらしいですよ。お祭りのときはね、ちゃんと正装していったそうです。そういう、気持ちのDNAみたいなものが、少し私にも受け継がれてるのかなぁと思って、ありがたいなと思ってます。今、私も経営者でしたからね、何度もつぶれそうになってますから。そういうときに、理屈だけじゃ乗り切れないんですよね。

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そして、お別れの思い出も、もう最後になってまいりましたので、お話をさせていただきたいんですが、1985年に、おじいちゃんが78歳で亡くなりました。私が大学出るか出ないか、そのぐらいのときでしたね。そして、おじいちゃん、基本的に健康でした。薪割りでね、ちょっと目を痛めて、片眼はよく見えなかったんですけど、それ意外はほとんど健康で、医者知らずだったんです。でも、そういう人のほうがね、ちょっと病気になると弱いんですよねぇ、やっぱり。ショックを受けたり。

で、ある日、かかりつけの病院はあったんですけど、そこに行ったら、なかなか帰ってこなかったんです。なかなか帰ってこなくて、元気がないんです。で、まぁ、結構早く亡くなっちゃったので、本当の病名はわからないけれども、たぶん前立腺癌だったんです。うちの父親も前立腺癌だったんで。私もなるっていうふうに、お医者さんに言われました。でもおじいちゃんは、自分で自分の病名、言わなかったんです。明治の人でしたから。嫌だったんでしょうね、やっぱり、そのショックで。ひょっとしたら、あの、黒澤明さんの『生きる』みたいにね、ああいうブランコ状態だったのかもしれませんね。

で、寝込んでしまいます。で、かくしゃくとしてましたけれども、妄想がときどき浮かぶようになりました。妄想と言っても、変な妄想ではなくて「誰々が来たよ」っていう。で、いろいろ言って。一番最初に気がづいたのは父ですけども「あれは、もう亡くなってる内弟子の、住み込みで来てくれた誰々さん」。まぁいわゆる「お迎え」があったのかもしれません。で、まあ、父にたずねると、そういう感じです。父が知っている人だったんですね。特徴がね。そして3か月ぐらい自宅で寝込んでたんですけど、交代で介護をしてました。で、ちょうどね、最後亡くなる日は私だったんですね。そして、まぁ妄想の状態だったんですけれども、ふっと正気に返ったんですね。で、そのときに、今まで聞けなかったけど、聞きたい話をいくつかしようというふうに思いました。

その二つの質問がありまして、一つはね「おじいちゃん、旅行いろいろ行ったよね」まぁ最初は苦労しましたけど、晩年はけっこう豊かでしたから、地元の老人会とか、信用金庫の会で海外もけっこう行ったんですね。「いろいろ行ったけど、僕まだあんまり行ってないけど、どこがおじいちゃん、楽しかった?」って言ったら、一番最初に行った台湾だと。もっといいとこ、いっぱい行ってるんですよ。「一番最初に行ったところがいいのか」って。そして、おじいちゃんも、世界中のいろいろなものを食べただろうから、私も食いしん坊なんで「何が一番おいしかったですか?」って聞きましたら、丁稚奉公して初めての給料で買ったバナナがおいしかったそうです。そういうもんなのかなって。後になってからやっていたけれどもね、最初、はじめて見る特別なものっていうのが心に残るんだなあと思って。そうすると、やっぱりね、私もそうですけど、もっともっといいことしたいと思うけれども、「原点が大切だよ」って教えられるじゃないですか。そういうことは今も忘れないようにしています。

そして、あと最後は自宅だったんですけれども、息をひとつぎ。ずっと息しながら「いーち、にーい」って言いながら、最後に息絶えたんですよね。だからたぶんね、お風呂に入るとき、熱いお風呂入るとき、そうです、数えますよね。ああいう感じで亡くなるんですよ。

そして、僕が一番びっくりしたのは、最終日は僕がずっとつきっきりだったんですよ。でも、町でおじいちゃんを見た人がたくさんいました。ちょっと恐いけど、そういうお話です。「神社に行ってたよ」って。氏子総代でしたからね。町で見かけた人がたくさんいたんです。お葬式のとき。それ、ちょっとびっくりしました。私、もともと目に見えないものを信じるタイプですけれども、そのときからね、「やっぱり信じよう」と思いましたね。

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で、今度、おばあちゃんのお別れの思い出なんですけれども、長生きしました。男の人はね、奥さんが亡くなると3年ぐらいで死ぬそうですけど、女の人は長生きしますね。今、うちの母親も長生きしてますけど、周りに未亡人だらけなんですよ。93なんですね。そして、おじいちゃんが亡くなってからやっぱり当然寂しくなっちゃったんで、私が一緒にしばらく暮らしていました。一緒にですね。ま、と言っても学校に行ったり、会社に行ったりしたから、いつも一緒ではないけれども、寝るのはいつも一緒です。で、よかったのは、下町だったから、さっきの町会やらね、あの集まりがあったから、寂しくなかったんじゃないですか。うちの母親もそうです。今でもやっぱり、お祭りやったりね「面倒くさいわね」って言いながら、やっぱり「声かけてくれる人がいたからよかった」って、いつも言ってます。

でも、元気だったんですけれども、まあ突然なんですね。ある日ベッドから落ちて骨折して寝込んだところから、やっぱり悪くなったんです。ちょっと入院してから妄想が見えるようになりまして。でも、おじいちゃんで妄想には慣れてますんでね。そして、ご存じのように3か月ごとに転院、ま、当時は要介護度が低かったんです。だから入れなくて。施設に。で、3か月ごとに転院するという感じです。

そして、とはいいながら要介護度が5ぐらいになって一番重くなったときに、墨田区では残念ながらすごせなかった。600人待ちでした。今はもうちょっとね、ゆるい。どこでも入れたんですけど、当時は少なかったんですね。で、あらゆるつてを探してもなくってね。で、たまたまうちのかみさんが、ポストに入ってる、ま、目黒に住んでるんですけど、パッと見てて、「こういうのができるらしいよ」って。できるときに入れるのが一番ラッキーです。できた後だと、空きが出ないといけませんからね。できるときに入れる。で、近所だったから、私の息子にもね、お見舞いに行って。これがとっても良かったと思うんです。正直いえば息子も恐かったと思います。目に見えないものを見て「ここに子どもがいる」とかね、いろいろ言いますけれども、「そういうふうになるよ」というのを見られたのがよかったんじゃないかなと今では思ってます。

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で、最後でございますけど、おじいちゃん、おばあちゃんに感謝することをまとめてみますと、やっぱり、ただただかわいがってもらえたっていうことであります。それが一番です。いいも悪いもないんです。やっぱり今の子どもたちは、あまり褒められてないらしいですね。今日、お母さんだった方もいますけど、統計的に言うと、1日に200ぐらいお小言言うそうですよ、お母さんは、子どもに。それをやっぱり、おじいちゃん、おばあちゃんが救ってあげないとね。つらいかなぁって思います。

そして「褒めてもらえる喜び」ですよね。何でもいいわけですよ。ちょっとやれば褒めてくれますから。それがやっぱり何かね、「人のためになにかしよう」っていう原動力じゃないかなあっていうふうに思うわけであります。

そしてあとは、おじいちゃんとかのおかげでプロレス好きになりました。下町の人、プロレスみんな好きです。よくプロレスを、国際プロレスとかに行きました。あと時代劇です。見ました。そして朝ドラも見ました。これを見るおかげで、私は若いから證券会社でシニアの方と、いろいろ対応するんですけれども、話が合うわけですよ。これ、よくあるんです。シニア世代との付き合い方っていうの、小さいから慣れているから。やっぱり、そういうおつきあいがないと、どういうふうに接していいか、わかんないでしょ。悪気はなくても。でも銭湯で、ずっと一緒でしたからね。背中流したり、流されてたりしてましたから、そういう付き合い方をよく知っていました。

そして、神様、仏様との付き合い方も。残念ながら私の友人で、すごい頭よかったのに新興宗教にはまった人、たくさんいます。僕はちっちゃいころから「神様仏様」でしたから、そういうのには、だまされません。いい新興宗教もあるかもしれないけど。まぁいわゆる日本教です。神様も仏様もね、クリスマスもお祝いして。何にでも「ありがたい」と思う。ご先祖様ありがたいと思う。ものに魂が宿っていると思う。いわゆる日本教ですよね。そういうのがあったおかげで、まぁ怪しい考えに染まらないですんだ。そして、あと地域や社会とのつきあいです。やっぱり、途中から最後は「お返しする」んだと。私も今観光協会やってますけれども、地域にお世話になったから「お返し」です。ボランティアとかいう言葉じゃなくて「お返しする」っていうのを、両国のおじいちゃん、おばあちゃんとのつきあいで学びました。

そしてあとは、いいことばかりじゃなくて三世代ですから、嫁姑ありますよね。兄弟げんかもあるし、いろいろありましたけど、「そういうもんだな」っていうのを学んだんですね。人間2人以上集まったら、必ずけんかになるしね。いろいろあるんだけれども、まあ、それはそれでよかった。

そして、一番はやっぱり「生き方と死」ですよね。やっぱり、普通にしてると「死」っていうのは身近じゃないわけですけれども、おじいちゃんと、おばあちゃんの話ですと、震災前から戦争までの。あと自分なりの亡くなり方を見せてもらったんですね。やっぱり「自分の死に方どうしようかな」っていうのを考えると、えらい力をつけてもらったと思います。

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ということで、ちょうど1時間になりましたけれども、おじいちゃんとおばあちゃんの、いい機会でございましたので、昔懐かしい話を思い出してみました。まぁみなさんの役には立たないかもしれませんけれども、一応、孫世代はこういうふうに、みなさんの教えを引き継いでいるということで聞いていただきました。ご静聴、どうもありがとうございました。(拍手)

司会
久米さん、どうもありがとうございました。久米さん、昭和38年ということで。

久米
38年です。

司会
私もおない年。

久米
うさぎ年ですね。

司会
うさぎ年です。はい。なんですけれども、こんなふうに、おじいちゃん、おばあちゃんの話を、長時間整然と、しかも愛情を込めてお話しできるんだ! と思って、ほんと素晴らしいことだなぁと思いました。みなさん、もう一度盛大な拍手をお願いいたします。

久米
ありがとうございます。どうもありがとうございます。

お気軽にお問い合わせください。 TEL 080-2020-0142 担当:高橋(事務局)

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