自分史活用アドバイザー 桑島まさき

これはある中年男女の30余年に及ぶ純愛の物語だ。
彼女の名は、大場美奈子(田中裕子)。50歳、独身、一人暮らし。朝は牛乳配達、昼はスーパーのレジをして暮している。美奈子の住む長崎市は坂の多い町だ。朝早く自転車で販売店へでかけ、配達する牛乳をつめかえ、配達地域まで雇い主と車でいき、急勾配の坂の上に住む人々のために牛乳を運ぶ。カメラは遠景ショットで彼女が坂を登り降りする様を捉え、それによって住んだことのない人でなくてもその仕事がいかに重労働かがわかる。
配達が終わると一度家に戻り食事をすませ、支度をして次の仕事へでかける。単調な毎日のくり返しの中で、変化があるとすれば、時折、亡くなった母の女学校時代の友人のおばさんと酒をのみながらあれこれ話すぐらいだ。
そして夜、眠りにつく前に好きな本を読む。読書好きな彼女の部屋の書斎は夥しい数の本が規則正しく並んでいる。

美奈子には心に想う人がいる。高校時代に交際していた元カレ(彼)の高梨槐多(岸部一徳)のことを今も忘れられず、決して人に知られないように秘めている。なぜなら、槐多には病身の妻がいる。遠い昔、2人の父と母が同じ自転車に乗り不慮の事故で他界したため、若い恋人たちの仲は「世間」によって引き裂かれてしまった。男も彼女のことを忘れられないまま現実を生きていた。
男は飲みもしないのに牛乳を頼み、毎日、元カノ(彼女)が坂を登って牛乳を運んでくる気配を感じる。触れ合うことはできなくても、想いを打ち明けることはできなくても、好きな彼女が傍にいることを実感できればいい。それが、ささやかな幸福なのだ。
同じ町に住むかつて好きあった男女に同じように時間が流れ、別々の空間で年を重ねている。美奈子が自転車を漕いでスーパーへ向かう時、槐多は電車で職場へでかける。すぐ傍にいる男と女の距離は近いのに、2人の人生は交差することを許さない。いや、2人が共にそれを戒めているのだ。

槐多は誠実で分別のある男だ。病身の妻の容子(仁科亜季子)の命が長くないことを知り、介護に専念し、夜は寝たきりの妻の傍で寝る。余命短い妻は夫の心を察知する。登場する人物は皆、他者への思いやりをもった辛抱強い人たちばかりだ。
そして、男の妻は“ある行動”を起こす。急がなければいけない。生命が尽きる前に、愛する夫を彼が愛した女に戻してあげなければならない。容子と美奈子はついに対面を果たす。相手を思いやる節度のある大人の女2人が静かに向き合うシーンは感動的だ。
そして、容子に死の時が訪れる……。
胸にしまいこんできた想いを一気にはきだし、かつての恋人たちは気持ちを確認しあう。

海に囲まれた長崎では、住民は山々に住まいを構えているため、生活と坂は切り離せない。重い荷物を持っていても坂を昇り降りしなければ家へ帰ることはできない。バスや車の通れない細く急な坂道が多くある。また、長崎は台風や水害の影響を受けやすい場所でもある。
ひとつの恋を大事に胸にしまい、それが実らなくても好きな男(女)が同じ町で息をしていることを確認できれば満足と思う男女。しっかり地に足をつけて毎日を送る2人の人生を語るには、「試練」=「坂」の町という設定は説得力があり効いている。ゆっくりとページをめくるように紡がれていた2人の物語は、一挙に急展開をみせるが、なんという皮肉な結末だろうと思う人は少なくないことだろう……。

表情の乏しい田中裕子と岸部一徳は、不器用ながらも静かな情念を一途に胸に秘める中年男女の役を見事に演じる。美奈子の長い恋は終わった。槐多は無念であっただろうが、笑っているようなその顔からは、至福の表情しか読み取れない。印象に残る作品だった。

*「いつか読書する日」(2005年6月11日 日本公開)
いつか読書する日 : 作品情報 – 映画.com